「タケホープ」の版間の差分

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しまあじ (会話 | 投稿記録)
C:CITE分類、履歴2010年4月12日01:29(UTC)付け
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[[1972年]][[7月15日]]に[[東京競馬場]]で行われた新馬戦でデビュー、1番人気に応え勝利した。ところが、2勝目をあげるのに手間取り、結局2勝目(若竹賞)は年も明けた[[1973年]]1月のことだった。その後[[皐月賞]]を目指して東京4歳ステークスに出走したが3着、[[弥生賞]]は[[ハイセイコー]]の前に7着と敗れた。次戦、東京の四歳中距離特別でサクラチェスにハナ差の勝利を収め、日本ダービー出走にこぎつけた。この時、タケホープ主戦の[[嶋田功]]騎手(現・調教師)は、「ハイセイコーが四ツ脚なら、こっちだって四ツ脚だよ」という発言をしたが、周囲やマスコミには皮肉としか受け取られなかった<ref>この発言を嶋田から引き出したのは、日本における元騎手の[[競馬評論家]]第1号として知られる[[渡辺正人 (競馬)|渡辺正人]]である。</ref>。が、嶋田と、タケホープを管理する[[稲葉幸夫]]調教師は、それなりの勝算を持っていたという。
 
単勝支持率66.6%という圧倒的支持を得たハイセイコーに対し、タケホープは9番人気だった。レースでは最後の直線で先頭に立ったハイセイコーを差しきり、タケホープが日本ダービーを勝利した<ref>このとき2着になったのが[[イチフジイサミ]]であったが、タケホープは直線で斜行気味に走ってしまい、イチフジイサミの進路が窮屈になってしまった。このときの鞍上であった津田昭騎手は、それでも進路は1頭分開いていたと語っているものの、これが原因で負けたとするフシが多く、イチフジイサミの厩務員も後々まで「あれが原因で負けた」とタケホープの厩務員になじっていたという。両厩務員は仲が良かったため「そんなことはない」と当初は笑って返していた。ところが、イチフジイサミ自身が大レースをなかなか勝てなくなってしまったため、徐々に申し訳ないような気持ちになっていたが、昭和50年の天皇賞・春を制したので、ようやく胸を撫で下ろしたという。{{要出典|date=2010年4月}}</ref>。ハイセイコーは1秒弱離れた3着に敗れている。
 
秋初戦の[[京都新聞杯]]ではハイセイコー2着に対し、タケホープは6番人気と低評価だった上8着と大敗。そして、[[クラシック (競馬)|クラシック]][[三冠 (競馬)|三冠]]の最終戦の菊花賞では、嶋田が落馬負傷するというアクシデントで急遽[[武邦彦]]に乗り変わり、またもや6番人気と低評価だったタケホープが、ハイセイコーをハナ差で下し、[[二冠馬]]となった([[2006年]]現在日本ダービーと菊花賞の二冠馬はタケホープの他には[[クリフジ]]のみ。どちらも皐月賞不参戦馬である)。年末には、この歳の年度代表馬、及び最優秀4歳牡馬に選出された。