「ハンガリーの歴史」の版間の差分

→‎ハンガリー王国: 少し加筆、山川の新版世界各国史を参考に。
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[[1000年]]にマジャル人である[[アールパード朝|アールパード家]]の[[イシュトヴァーン1世]]が[[キリスト教]]に改宗すると、[[ローマ教皇]]から[[ハンガリー王国|ハンガリー]]国王として聖別をうけ戴冠し、[[ヨーロッパ世界]]の一員となった。それからのハンガリー王国は北部の[[スロバキア|スロヴァキア]]([[モラヴィア]])、南部の[[クロアチア]]の[[スラヴ人]]を支配下に入れ、さらに[[トランシルヴァニア]]にも勢力を伸ばした。この頃がハンガリーの絶頂期であり、[[中央ヨーロッパ|中欧]]の強国として君臨していた。この時代の領域は[[ハンガリー王国の歴史的地域|聖イシュトヴァーンの王冠の地]]と呼ばれ、以後ハンガリーの歴史観において重要な位置を占めた。このためハンガリー王となるものは[[聖イシュトヴァーンの王冠]]を頂く者であるという概念が生まれた。
 
13世紀には[[モンゴル帝国]]の侵略を受け、甚大な被害をうけた。この経験を経たことでハンガリー国王は防衛体制を整える必要に迫られ、貴族層に土地を与えて彼らの主導で堅固な城塞を築かせていった。同じく防衛上の観点からも城壁を持つ都市の発展が求められ、従来までの都市のほか、新たにドイツ人の入植を契機とした都市も形成・発展した。その例として、[[シビウ]]、[[ブラショフ]]、[[ビストリツァ]]、[[コシツェ]]などが挙げられる。
13世紀には[[モンゴル帝国]]の侵略を受け、甚大な被害をうけた。その後[[1301年]]にアールパート朝が断絶すると[[選挙王制]]となり、[[1308年]]に[[ナポリ王国]]の[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]から王がでた。以後世襲王朝が続き、その間ハンガリー王だけでなく[[ポーランド王国|ポーランド]]王も兼ねるようになり、15世紀の[[マーチャーシュ1世]]の頃に強盛を極めた。
 
13世紀には[[モンゴル帝国]]の侵略を受け、甚大な被害をうけた。その後[[1301年]]にアールパート朝が断絶すると[[選挙王制]]となり、[[1308年]]に[[ナポリ王国]]の[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]から王がでた。以後世襲王朝が続き、その間ハンガリー王だけでなく[[ポーランド王国|ポーランド]]王も兼ねるようになり、15世紀の[[マーチャーシュ1世]]の頃に強盛を極めた。
 
===ハプスブルク帝国とオスマン帝国 ===
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