「梅ヶ谷藤太郎 (初代)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
3行目:
 
== 経歴・人物 ==
[[筑前国]][[上座郡]]志波村梅ヶ谷(現[[福岡県]][[朝倉市]])に生まれる。本名小江藤太郎。身長176cm。体重は105kg、113kg、120kg、124kgなどと曖昧に伝えられているが、写真では筋骨隆々の体格で体重があるようには見えない。
 
にわかには信じがたいが、赤子の頃から石臼を引きずる怪童であり、乳や菓子よりも酒を欲しがり酒で育てられたという。7歳の時に[[大坂相撲]]に引き取られ梅ヶ枝を名乗る。その後大坂相撲の湊部屋に入門、[[四股名]]はこの時から梅ヶ谷、これは故郷にちなんでつけられたものだという。新入幕は[[明治]]2年([[1869年]])3月場所、いきなり[[小結]]に据えられる。[[大関]]になった後、翌明治3年([[1870年]])暮れに東京に加入([[玉垣]]部屋に所属)するが、何と[[序ノ口]]より下の[[本中]](現在の[[前相撲]]にあたる)に据えられてしまう。[[陣幕久五郎|陣幕]]が大坂にいたため大坂から来た[[力士]]が嫌われていたためもあるが、当然こんな地位からでは敵などおらず、明治7年([[1874年]])12月場所新入幕で8勝1分の優勝相当成績を挙げた。
15行目:
協会(当時は東京大角力協会)の最高職だった取締を長く務め、[[大正]]4年([[1915年]])6月場所で弟子の[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|梅ヶ谷]]が引退すると[[雷部屋]]と[[年寄名跡]]を譲って廃業したが、協会は「'''大雷'''」の尊称を贈り[[相談役]]待遇として接していた。
 
昭和3年([[1928年]])6月15日83歳で死去。2代目梅ヶ谷が没してから9ヶ月も後だった。[[還暦]]が長生きの基準だった時代の力士としては非常な長命であり、横綱の長寿記録として現在でもまだ破られていない<ref>[[若乃花幹士 (初代)|初代若乃花幹士]]が記録を更新すると目されていたが、[[2010年]][[9月1日]]に82歳([[1928年]]生まれ)で死去した。</ref>
 
巨体とも伝わるが、実際には歴代横綱の中では小柄な方。右上手を浅く引きつけ左は筈かのぞかせて寄る堅実な取り口だったとされている。前述の通り58連勝を記録、[[平成]]22年([[2010年]])現在でも[[双葉山定次|双葉山]]69連勝、[[谷風梶之助 (2代)|谷風]]63連勝に次ぐ歴代3位の記録なのであるが、当時は記録への関心が薄くほとんど取りざたされる事もなかった。赤子時代の逸話はこの強さから生み出された後世の創作かもしれない。
 
昭和34年([[1959年]])[[11月24日]]、福岡県[[原鶴温泉]]に「初代梅ヶ谷記念碑」の除幕式が行われた。
32行目:
*[[横綱一覧]]
*[[止め名]]
*[[若乃花幹士 (初代)]]
 
== 脚註 ==
<div class="references-small"><references /></div>
 
{{歴代横綱|第15代|1884年2月 - 1885年5月}}