「保守合同」の版間の差分
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[[終戦]]直後から、[[社会主義]]勢力の台頭を危惧する保守[[政治家]]の間で、戦前の[[二大政党]]であった[[立憲政友会]]系政治家と[[立憲民政党]]系政治家が結集して新党を結成する構想が出された。政友会系はかつて同党の総裁候補とされていた[[鳩山一郎]]を代表に担ごうと考え、戦時中の[[翼賛議会]]で鳩山とともに軍部と戦った民政党系の[[三木武吉]]が構想の実現に奔走した。
だが、民政党系の多くは党首の経験の無い鳩山よりも自党の最後の総裁であった[[町田忠治]]が党首に相応しいと主張し、結局民政党系の大半は
一方、鳩山を初代総裁として政友会系を中心に結成された[[
ところが直後に鳩山・三木以下幹部の多くが公職追放の対象となってしまう(自由党は新人議員が多かったため、進歩党とは対照的に追放発令後も第一党を維持した)。そこで、占領軍の受けの良い親英米派の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[吉田茂]]を[[内閣総理大臣|総理]]・[[総裁]]に擁立して危機を乗り越えようと考えたのである。
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その後、左右社会党が[[社会党再統一|再統一]]されて[[日本社会党]]となり、保守政党にとって大いに脅威となった。社会党の脅威に対抗するため、三木や緒方らが保守合同を働きかけた。また、[[参議院]]の[[緑風会]]は、不偏不党を建前としていたが、会員の多くは保守系であり、やはり有志という形で保守合同を求める口上書を民主、自由両党に送った。
保守合同には反対論もあり、その中心人物として旧改進党系の[[松村謙三]]、[[宇都宮徳馬]]、[[三木武夫]]らがおり、彼らは保守分立論を唱えた<ref>但し宇都宮は[[石橋湛山]]直系の政治家であり、日本民主党結成前は[[日本自由党 (1953-1954)|自由党鳩山派]]に所属していた。</ref>。しかし、最終的に保守合同によって自由民主党が結党され、唯一の保守政党による単独政権が誕生し、[[55年体制]]が始まった。
しかし、保守政党の溝は深く、総裁人事がまとまらなかったため、二党の総裁と総務会長であった鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉、[[大野伴睦]]の4人による総裁代行委員体制として始まった(5ヵ月後の1956年4月に鳩山が総裁に就任)。また鳩山派に反発した吉田茂、[[佐藤栄作]]、[[橋本登美三郎]]らは当初自民党に参加しない等、足並みの乱れも見られた(3人は鳩山が引退した1957年に自民党に入党している)。
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その後、自民党は[[四十日抗争]]などの分裂危機、[[新自由クラブ]]結成、[[新生党]]・[[新党さきがけ]]・[[国民新党]]など自民党からの離党・新党結党、新自由クラブ・[[日本社会党]]・[[公明党]]との閣内連立による政権維持、1993年の下野、2007年の参議院第二党転落など様々な変化があるが、衆議院第一党としての位置は[[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙]]まで崩れなかった。
== 脚注・出典 ==
==関連項目==▼
{{Reflist}}
*[[自由民主党 (日本)]]▼
▲== 関連項目 ==
*[[自由民主党の派閥]]▼
▲* [[自由民主党 (日本)]]
* [[
▲* [[自由民主党の派閥]]
*[[三木武吉]]▼
* [[
* [[鳩山一郎]]
▲* [[三木武吉]]
* [[松村謙三]]
[[Category:昭和時代戦後の政治|ほしゅこうとう]]
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