「大名県」の版間の差分

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(zh:大名府を参考に加筆)
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|established_title = 建置
|established_date = 南北朝時代
|established_title1= 改称
|established_date1 = 1913年
|area_total = 1052
|population_total = 74
}}
 
'''大名県'''(だいめい-けん)は[[中華人民共和国]][[河北省]]の[[邯鄲市]]の管轄下にある[[県 (中華人民共和国)|県]]。県人民政府所在地は大名鎮にある
 
==歴史==
[[北宋]]期には'''大名府'''(だいめいふ)、あるいは'''北京大名府'''(ほくけいだいめいふ)と称され、北宋の「四京」の一つとして[[副都]]となっており、また河北東路の首府ともなっていた。大名府は当時の河北では最大の都会であり、燕京(現在の[[北京市]])をも領土とする[[遼]]に対する防衛の要地として重要視された。この時代を舞台にした『[[水滸伝]]』では、北京大名府は[[盧俊義]]や[[燕青]]などの登場人物が暮らす大都会として描写されている。
[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、[[東魏]]により設置された'''貴郷県'''を前身とする。[[580年]]([[大象]]2年)には[[北斉]]により[[魏州]]州治とされ、[[隋|隋代]]の[[大業]]年間には[[武陽郡]]郡治とされた。その後[[唐|唐代]]には[[662年]]([[武徳]]4年)に魏州(662年から672年は冀州と改称)の州治とされた。
 
[[五代十国時代]]になると、[[948年]]([[同光]]元年)、[[後唐]]により'''広晋県'''とされ[[広晋府]]府治とされた。[[948年]]([[乾祐]]元年)には[[後漢 (五代)|後漢]]により'''大名県'''と改称され[[大名府]]府治とされている。
しかし[[金 (王朝)|金]]が北宋を滅ぼし[[華北]]全体を制すると、国境の軍事拠点としての大名府の重要性は失われ、小さな町へと変わってしまった。
 
[[宋 (王朝)|宋代]]になると、「四京」の一つとして[[副都]]でもある大名府(北京大名府とも)が設置され大名県はその府治とされた。大名府は[[河北東路]]の首府でもあり、[[遼|遼朝]]と対抗する軍事的要衝として重要視された。同時代を舞台にした『[[水滸伝]]』では、北京大名府は[[盧俊義]]や[[燕青]]などの登場人物が暮らす大都会として描写されている。大名県は[[1073年]]([[熙寧]]6年)に廃止され[[元城県]]に編入されたが、[[1096年]]([[紹聖]]3年)に再設置されている。
その後[[金 (王朝)|金]]が[[華北]]全域を支配するようになると、国境の軍事拠点としての大名府の重要性は失われたが、[[元 (王朝)|元代]]には[[大名路]]路治、[[明|明]][[清|清代]]には[[大名府]]府治とされた。明代の[[1377年]](洪武10年)に大名県は廃止となり[[魏県]]に編入されているが、[[1382年]](洪武15年)に再設置され、現在に至る。
 
== 行政区画 ==
* [[鎮]]:大名鎮、万堤鎮、竜王廟鎮、楊橋鎮、束館鎮、金灘鎮
* [[郷]]:大街郷、王村郷、旧治郷、北峰郷、西未郷、紅廟郷、孫甘店郷、西付集郷、沙圪塔郷、張集郷、黄金堤郷、埝頭郷、営鎮郷、鋪上郷
 
{{中国地名変遷
|establish = 南北朝時代
|situation = 大名県
|South and North = 貴郷県
|Sui = 貴郷県
|Tang = 貴郷県
|Five Dinasties = 広晋県<small>(後唐)</small><br/>大名県<small>(後漢)</small>
|Northern Song = 大名県
|Southern Song = 大名県
|Yuan = 大名県
|Ming = 大名県
|Qing = 大名県
|ROC = 大名県
|PROC = 大名県
}}
 
{{河北省の行政区画}}
{{DEFAULTSORT:たいめい}}
[[Category:河北省の行政区画]]
{{china-geo-stub}}
 
[[de:Daming]]
33,542

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