「国際寝台車会社」の版間の差分

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'''国際寝台車会社''' ({{lang|fr|Compagnie internationale des wagons-lits}}) は[[1872年]]に[[ベルギー]]で実業家[[ジョルジュ・ナゲルマケールス]]によって設立され、[[ヨーロッパ]]全域で活動していた[[鉄道事業者]]である。独自の路線や[[機関車]]は持たず、豪華な[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]や[[食堂車]]を中心とした[[オリエント急行]]をはじめとする[[国際列車]]を主に運行していた。
 
[[2007年]]現在は定期列車の運行からは撤退し、主に車内サービスを行なう企業として[[フランス]]、[[オーストリア]]、[[イタリア]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[イギリス]]の6か国で活動している。本社は[[フランス]]の[[パリ]]に置かれている。
 
[[頭文字]]のCIWLでも知られる。また[[ドイツ語]]圏ではISG ({{lang|de|Internationale Schlafwagen-Gesellschaft}}) と呼ばれた。日本語では'''ワゴン・リ社'''、'''ワゴン・リー社'''とも呼ばれる。
 
== 歴史 ==
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オリエント急行の成功により、ワゴン・リ社の急行列車網はさらに拡大された。1884年には社名を'''国際寝台車・ヨーロッパ大急行会社''' ({{lang|fr|Compagnie internationale des wagons-lits et des grands express europèens}}) と改称した。路線網はヨーロッパ全域から[[トルコ]]・[[北アフリカ]]におよび、また[[シベリア鉄道]]を経て[[ウラジオストク]]にも達していた。[[鉄道連絡船]]を介して[[日本]]へ乗り入れる構想もあったが、これは結局実現しなかった。
 
[[1892年]]には子会社として「大ホテル会社」({{lang|fr|Compagnie des Grand Hôtels}}) を設立し、主要都市の駅前や行楽地で[[ホテル]]を営業した。
 
=== 第一次世界大戦 ===
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シベリア鉄道では全線開通前からワゴン・リ社の列車が運行されていた。1898年8月には[[モスクワ]]から[[トムスク]]まで往復するツアーが行われ、その成功を受けて1899年からモスクワ-[[イルクーツク]]間でシベリア急行 ({{lang|fr|Sibérien Express}}) の運行が始まった。[[日露戦争]]による中断を挟み、1906年からは[[東清鉄道]]経由でモスクワ-ウラジオストク間で「シベリア横断急行」({{lang|fr|Transsibérien Express}}) が運行されるようになった。
 
パリ発の北急行から分離してワルシャワ経由でモスクワに至る列車も運行され、これらを乗り継ぐことでパリから[[中国]]([[清国]])や日本(ウラジオストクからは連絡船による)に至る切符が発売された。1908年の広告ではパリから日本([[敦賀港|敦賀]])まで所要17日、料金は1,262[[フランス・フラン|フラン]]65サンチームであった。
 
ロシア革命後は運休していたが、1928年に[[ソビエト連邦]]との合意に基づき運行を再開した。
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[[英仏海峡トンネル]]の開通以前にパリ-ロンドン間を乗換えなしで結んでいた列車はナイト・フェリーのみである。昼行列車の「黄金の矢」({{lang|fr|Flèch d'Or}}, Golden Arrow) はカレーとドーバーで乗換が必要であった。
 
==ホテル==
[[1892年]]には子会社として「大ホテル会社」({{lang|fr|Compagnie des Grand Hôtels}}) を設立し、主要都市の駅前や行楽地で[[ホテル]]を営業した。[[ボルドー]]と[[マルセイユ]]で「ホテル・ターミナス(Hotel Terminus)」を、[[北京]]で「グランド・ホテル(Grand Hotel des Wagons-Lits)」を、[[イスタンブール]]で「ペラ・パレス(Hotel Pera Palace)」を、[[オステンド]]で「ホテル・ドゥ・ラ・プラージェ(Hotel de la Plage)」を経営していた。
 
== 参考文献 ==