「クレマン・マロ」の版間の差分

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マルグリットの宮廷にいた文人同様、あるいはそれ以上に、マロがマルグリットの趣味の良い作法、尽きない思いやり、賞賛すべき知的教養に魅せられたことは間違いない。しかし二人が恋愛関係にあったかどうかはわからない。いずれにせよ、感情かもしくは成熟した批評眼のどちらかが、マロのスタイルを大きく(おそらく良い方向に)変えた。ところでその頃、マロは「ディアーヌ」という女性を讃美する詩を書いた。その女性は[[ディアーヌ・ド・ポワチエ]]ではないかと言う人もいるが、異論も多い。16世紀の詩人たちは相手の女性のことを偽名で呼ぶのが習わしだったからである。
 
[[1524年]]、マロは[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]のイタリア遠征に随行した。しかし、[[パヴィアの戦い]]で[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]が捕虜になった。マロが負傷したか、王と運命をともにしたかはわからない。いずれにせよ、[[1525年]]のはじめにマロは[[パリ]]に戻った。やがて、マルグリットは知的な理由から、[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]は政治的な理由から、二人はこの時代を特徴づける[[人文主義者|人文主義]]と改革の二重の「啓蒙」運動を支持するようになった。しかし、革新への強力な抵抗が起こり、とくに慎重でもなかったマロは[[異端]]の罪で逮捕され、[[1526年]]2月、[[シャルトル]]に投獄された。しかし、マルグリットに代わって、友好的な高位聖職者たちが[[復活祭]]前にマロの解放を決めた。この投獄はマロに『l’Enfer(地獄)』という迫力ある詩を書かせた。この詩は後に友人の[[エティエンヌ・ドレ([[:en:Étienne Dolet]]に模倣された。マロの父親が亡くなったのはこの頃で、マロは父親の役職だった「王の従者」([[:en:Valet de chambre]])に就いた。さらに[[1528年]]には、俸給250リーブルで、王室の一員となった。[[1530年]]頃、結婚した。[[1531年]]、再びマロはトラブルに見舞われ投獄されたが、この時も釈放された。この時、[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に書いた釈放を乞う詩は有名なものである。
 
[[1532年]]、マロは『クレマンの若き日(L’Adolescence clémentine)』と題した最初の作品集を発表した。大変な好評で何度も版を重ねた。その中でも、ドレの[[1538年]]版が最も権威あるものと考えられている。しかし、マロの敵たちは先の失敗にも挫けることなく、[[1534年]]の[[檄文事件]]にマロが関わったと訴えた。マロは逃亡した。ネラック([[:en:Nérac]])、[[ナバラ王国|ナバラ]]宮廷を経て、マロが向かった先は、マルグリットの義理の姉妹で、フランス[[宗教改革]]の支援者だった[[ルネ・ド・フランス]]のところだった。その領地([[フェラーラ]])はフランス国外だったからである。[[フェラーラ]]でマロは、フランスのすべての詩人たちが模倣した[[ブラゾン]](Blasons。中世の手本を改良した記述的な詩)を含む作品を書いた。Thomas Sibiletは「ブラゾン」を、「相手に対する果てしない讃美、もしくは絶え間ない非難」と定義している。マロの追随者たちの「ブラゾン」は[[1543年]]に『Blasons anatomiques du corps féminin』という題名で出版された。
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