「築地ホテル館」の版間の差分

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== 概要 ==
 
[[1868年]][[1月1日]]に[[江戸]]は外国人に向け開市されることになっていたが、そうなると江戸に滞在する外国人が増えることが予想された。このため、イギリス公使[[ハリー・パークス]]は、[[江戸幕府|幕府]]にホテルの建設を要請し、それに応えて[[築地]]船板町の[[軍艦操練所]]の跡地(現在の中央卸売市場の立体駐車場あたり)に築地ホテル館が建設されることになった。設計は横浜[[外国人居留地]]内に土木建築事務所を開いていたアメリカ人の[[リチャード・ブリジェンス]]に依頼された。
 
ホテルの開設について、[[小栗忠順]]は、「民間でこれを行なうものがあれば土地は幕府が無償で提供し、利益は経営者のものとしてよい。資金は民間から資本を募り、利益を出資金に応じて分配する。」とした。これに応じたのが、清水組(現在の[[清水建設]])の二代[[清水喜助]]で、工事だけでなく経営も引き受けることとなった。
 
慶応3年([[1867年]])に建設着手、慶応4年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]([[1868年]][[9月25日]])完成した。すでに幕府は倒壊瓦解しており、その完成前月の[[7月17日]]には江戸が[[東京]]と改められていた。正式の開業日は、{{jdate|1869|1|1}}であるが、その前も仮営業し、宿泊客を受け入れていたようである。
 
完成したホテルの規模は、3階建ての本館(一部4階、塔屋付)と平屋からなり、延1619.7坪(約5354.4m²)、間口40.5間(約73.6m)、奥行34.0間(約61.8m)、102室。水洗トイレつき、[[ビリヤード]]室、シャワー室、バーも備えられていた。連日押すな押すなの人気で見物人が押し寄せ、錦絵が100種以上も作られ、江戸・東京の名所となった。
 
その後、ホテルの建物は海軍の手に渡り、{{jdate|1872|4|3}}に発生した銀座の大火で類焼し、灰燼に帰した。わずか4年足らずの寿命だった。
 
== 関連項目 ==
* [[開化絵]]
 
 
{{History-stub}}
{{DEFAULTSORT:つきしほてるかん}}
[[Category:ホテル]]
[[Category:幕末の歴史]]
[[Category:東京都の歴史]]