「フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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== 皇帝即位と結婚 ==
[[1452年]]、フリードリヒ3世は正式に戴冠すると同時に、[[ポルトガル王国君主一覧|ポルトガル]][[ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)|ドゥアルテ1世]]の娘[[エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル|エレオノーレ(レオノール)]]と結婚するため、[[ローマ]]に向かった。エレオノーレとは[[シエーナ|シエナ]]で落ち合い、ローマで戴冠式と結婚式を同時に執り行った。
 
フリードリヒ3世は倹約家として知られ、「[[ポルトガル王国|ポルトガル]]への使者に旅費をほとんど与えず、使者は物乞い同然でポルトガルたどり着き逮捕された」、「ローマまでの路銀を教皇に用立てさせた」、「エレオノーレに『ワインをストレートで飲むとは何事だ!』と怒った」、「日頃の食事は芋と豆料理ばかりだった」等の風説が広まった。
 
また、[[占星術]]に深くはまり、[[イタリア]]で授けられた子供は[[悪魔]]の申し子であると信じて妻に手を触れなかったとも言うが、[[1459年]][[3月22日]]待望の王子(後の[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]])が生まれた。<!--この時の占いの結果は大吉だったが、それは後に正反対の結果となってあらわれる。-->
フリードリヒ3世の好きな言葉は“A・E・I・O・U”で、あらゆる物にこれを掘り込んでいた。これは“Austriae Est Imperator Orbis Universi”(オーストリアは全世界の支配者なり)という意味の[[ラテン語]]の略と言われるが、異説もある([[:en:A.E.I.O.U.]]を参照)。
 
存亡の機にあるハンガリー貴族はフリードリヒ3世を見限り、オスマン帝国から恐れられていた[[フニャディ・ヤーノシュ]]を実質的な王に選出していたが、ヤーノシュの子[[マーチャーシュ1世|マーチャーシュ]]は[[1458年]]、正式に[[ハンガリー王一覧|ハンガリー王]]に選出されると、[[ワラキア]]、[[セルビア]]等次々に領土を拡張し、[[1479年]]には[[オロモウツの和約]]によって[[オーストリア大公]]の地位さえ奪ってしまう。[[1483年]]には[[オーストリア大公国|オーストリア]]の半分を支配し、[[1485年]]以降ウィーンも占領された。しかしマーチャーシュは[[1490年]]に子を残さぬまま死亡し、フリードリヒ3世は再びウィーンに戻り、オーストリアの支配権を奪還することができた。
 
== 最後の錬金術 ==
フリードリヒ3世は、最後に“[[錬金術]]”を成功させた。それは、当時栄えた[[ブルゴーニュ公国]]を手に入れるということであった。当時の[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]]は皇后エレオノーレの従兄である[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル豪胆公(突進公)]]で、後継者は一人娘[[マリー (ブルゴーニュ女公)|マリー]]しかいなかった。このためヨーロッパ中の王侯が、ブルゴーニュ公国を相続するマリーとの婚姻を望んだ。特に対立関係にあった[[フランス王国君主一覧|フランス]][[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]は、王太子シャルル(後の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]])との結婚を執拗に望んでいた。しかしブルゴーニュ公は、皇帝フリードリヒ3世の子マクシミリアン大公との結婚に興味を示していた。
 
[[1473年]][[9月13日]]に両者は[[トリーア]]で会見し、豪胆公はブルゴーニュの支配者としての自分への王号の授与等を要求したが、フリードリヒ3世は明言を避けた。フランス王の反対や、帝国諸侯が豪胆公の好戦的な性格を恐れていたという背景もあり、結局11月24日の夜半、皇帝一行は闇にまぎれて立ち去った。この後、豪胆公はその好戦的な性格が禍となり、[[1477年]][[1月5日]]に[[ナンシーの戦い]]で戦死し、43歳で生涯を閉じた。豪胆公の死後、マクシミリアンとマリーは結婚し、その遺領のうち[[ブルゴーニュ公爵領ネーデルラント|ネーデルラント]]や[[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ=コンテ]]は2人のものになったが、[[ブルゴーニュ公]]の本領のほとんどは[[フランス王国|フランス]]に併合された。
 
その後、[[1488年]]に[[ブルターニュ]][[フランソワ2世 (ブルターニュ公)|フランソワ2世]]が一人娘[[アンヌ (ブルターニュ女公)|アンヌ]]を残して死没したときも同じような状況になった。アンヌも、既にマリーと死別していたマクシミリアンと婚約したが、フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]は武力で彼女を奪った。この事件が元で、フランス王家とハプスブルク家の関係は急速に悪化して行く。しかし[[ヴァロワ=ブルゴーニュ家|ブルゴーニュ家]]との婚姻は、その後のハプスブルク家の結婚政策「'''戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ'''」の第一歩となった。
 
== 総括 ==
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[[Category:ケルンテン公]]
[[Category:ハプスブルク家]]
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