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*ボストン・ダブス(1910)
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'''エド・アッバティッチオ'''('''
== 来歴・人物 ==
[[1897年]]
主なポジションはセカンドとショート(サードと外野を守った経験もある)。通算ではセカンドとして419試合、ショートとして388試合に出場した。▼
[[1899年]]から[[1902年]]までの4年間はメジャーの舞台から遠ざかったが、[[1903年]]にボストン・ビーンイーターズ(Boston Beaneaters)でメジャーリーグに復帰した後はレギュラーに定着。1903年には主に二塁手として、[[1904年]]と[[1905年]]は遊撃手を中心として試合に出場し、3年連続で100安打以上を記録した。このうち、1904年の148安打、1905年の170安打はチームトップの数字だった。一方守備では、当時の野球のレベルがまだまだ未熟だったという背景もあり、この3年間で211個のエラーも記録している。
ビーンイーターズでの3年間を終えた翌[[1906年]]には、アッバティッチオは球界を去り、ホテル経営の道へ進もうとした。しかし[[ピッツバーグ・パイレーツ]]が説得に乗り出したことで翻意し、パイレーツに入団。当時パイレーツには、史上最高の遊撃手とも評される[[ホーナス・ワグナー]]が在籍していたため、アッバティッチオは二塁手としてプレイすることになったが、1907年と[[1908年]]の2年続けて146試合以上に出場し、125安打以上を記録するなど安定した働きを見せた。
[[1909年]]、パイレーツに新人二塁手の[[ドッツ・ミラー]]が加入した。そのため4月で32歳を迎えたアッバティッチオは大きく出場機会が減ることとなったが、この年チームは110勝42敗という圧倒的な強さで[[1909年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]に進出。アッバティッチオも自身初となるワールドシリーズでの試合出場(結果は1打数1三振)を果たした。
翌[[1910年]]は更に出番が減少したアッバティッチオは、シーズン途中でボストン・ダブス(Boston Doves)へと移籍。しかしダブスでも、二塁手の[[デーブ・シェイン]]が26歳、遊撃手の[[ビル・スウィーニー (1886年生の内野手)|ビル・スウィーニー]]が24歳、と若手がポジションをキープしており、アッバティッチオは結局52試合に出場しただけにとどまった。この年の9月15日が最後の試合となった。
1957年、[[フロリダ州]]の[[フォートローダーデール]]で死亡。
== 選手としての特徴 ==
▲主なポジションはセカンドとショート
また、高い走力を持った選手でもあり、5年連続20盗塁以上を記録したこともあり、特に1907年の35盗塁はリーグ7位の数字だった(この年のリーグ1位はチームメイトのワグナー)。
== アメリカンフットボール ==
アッバティッチオはプロの野球選手というだけでなく、プロのアメフト選手の嚆矢でもあった。[[1895年]]には、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]最初のプロチーム、レイトローブ・アスレチック・アソシエーション(Latrobe Athletic Association)に所属し、フルバックとキッカーとして活躍した。
== 年度別打撃成績 ==
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