「マクシミリアン3世・フォン・エスターライヒ」の版間の差分

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[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]と皇后[[マリア・デ・アブスブルゴ|マリア]]の四男として、[[ヴィーナー・ノイシュタット]]で生まれた。マクシミリアンは父方の祖母[[アンナ・ヤギエロ]]を通じて、[[ポーランド王国|ポーランド]]の[[ヤギェウォ朝|ヤギェウォ家]]の血を引いていた。
 
[[1587年]]、[[ポーランド|ポーランド]][[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]の死去にともない[[国王自由選挙]]が行われるにあたり、マクシミリアンは立候補した。他の立候補者には、ポーランド王[[ジグムント1世]]の孫である[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]]シギスムンド([[ジグムント3世]])がおり、[[カタジナ・ヤギェロンカ|ポーランド王女カタジナ]]を母に持つことからジグムントが国王に選ばれた。この結果を不服としたマクシミリアンは武力をもって選挙結果を無効にしようとし、ポーランド継承戦争(1587年 - 1588年)を起こした。しかしマクシミリアンはジグムント3世を支持する[[ヘトマン]]、[[ヤン・ザモイスキ]]([[:en:Jan Zamojski]])軍に[[ビツジナの戦い]]([[:en:Battle of Byczyna]])で負けた。マクシミリアンは身柄を拘束され、[[教皇|ローマ教皇]][[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]の仲介後すぐ釈放された。[[1589年]]、彼はポーランド王となる権利を放棄した。この一件で実兄[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]の怠惰が明らかになり、ルドルフ自身の評判を悪くした。
 
[[1593年]]から[[1595年]]まで、マクシミリアンは[[チロル]]の領主となった従弟フェルディナント大公(のちの皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]])の[[摂政]]を務めた。彼は首尾一貫として[[反宗教改革]]の支持者であった。マクシミリアンは[[ウィーン]][[司教]][[メルヒオール・クレスル]]([[:en:Melchior Khlesl]]、のち枢機卿となる)を免職させ、フェルディナントを皇帝位につけるのにも奔走した。
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[[Category:オーストリア・ハプスブルク家]]
[[Category:オーストリアの君主大公]]
[[Category:チロル伯]]
[[Category:ポーランド王位継承候補]]
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