「ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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'''ヨーゼフ2世'''('''Joseph II''', [[1741年]][[3月13日]] - [[1790年]][[2月20日]])は、[[神聖ローマ皇帝]](在位:[[1765年]] - [[1790年]])、[[オーストリア大公]]、[[ハンガリー王一覧|ハンガリー]]、[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]]。全名は'''ヨーゼフ・ベネディクト・アウグスト・ヨハン・アントン・ミヒャエル・アダム・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''('''Joseph Benedikt August Johann Anton Michael Adam von Habsburg-Lothringen''')。[[フランツ1世_(神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]と[[マリア・テレジア]]の子。[[マリー・アントワネット]]の兄にあたる。
 
父フランツ1世の死後、母[[マリア・テレジア]]とともに共同統治を行う。[[啓蒙思想]]の影響を受けながら[[絶対王政|絶対主義]]の君主であろうともした[[啓蒙専制君主]]の代表的人物であった。その急進的改革ゆえ「民衆王」「皇帝革命家」などのあだ名がある。
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[[オーストリア継承戦争]]時に長男として生まれたため、母マリア・テレジアから非常に愛される(ヨーゼフの前に3人女児が続いていた)。
 
[[1760年]]、同い年の[[パルマ公国|パルマ]]公女(パルマ公[[フィリッポ・ディ・ボルボーネ|フィリッポ]]の娘)[[マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ|マリア・イサベラ]]と結婚し、優美な彼女を熱愛するが、[[1763年]]にイサベラは天然痘に罹病し第2子を早産(生後2時間で死亡)した末あえなく世を去る。絶望したヨーゼフは彼女の面影を求め、イサベラの妹[[マリア・ルイサ・デ・パルマ|マリーア・ルイーザ]]との結婚を熱望する(ただし妹は姉に似ず不美人だった)が、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]]で皇帝でもあった[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン|マリア・ヨーゼファ]]と再婚した。しかしヨーゼファには見向きもせず、1767年にヨーゼファが死んだ後は独身を貫いた。また、[[プロイセン|プロイセン]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]を崇拝し、母を悲しませる。[[1765年]]、父の死に伴い皇帝に選出された。
 
[[1772年]]、母マリア・テレジアの反対を押し切り、第1回[[ポーランド分割]]に加わる。[[1780年]]、マリア・テレジアの死により単独統治を開始すると、翌[[1781年]]に[[農奴]]解放令を発布した。また、宗教寛容令を発布して、[[ルーテル教会|ルター派]]、[[改革長老教会|カルヴァン派]]、[[正教会]]の住民に公民権上の平等を認めた。一方で国内の多くの[[修道院]]を解散させ、その財産を国家が掌握することで財政を富ませた。その他に皇室の料地であった[[プラーター公園]]を一般市民に開放したり、[[ウィーン総合病院]]を開設するなどの政策を行った。
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[[Category:神聖ローマ皇帝]]
[[Category:オーストリアの君主大公]]
[[Category:ハンガリーの国王]]
[[Category:ボヘミア国王]]