「長尾景長」の版間の差分

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幼くして父を亡くし、兄も病死した為、7歳で叔父の[[長尾房清]]の[[後見]]を受けながら足利長尾氏の[[家督]]を継いだ<ref>近年、[[落合厚志]]や[[黒田基樹]]は房清の受領名が足利長尾氏当主が代々受けた但馬守であったことを理由に景長が但馬守を受ける明応4年以前は房清が足利長尾氏当主であったとする説を唱えている。ただし、その前後を通じて同氏に家督を巡る内紛があった事実は確認できず、房清が当主であったとしても将来的には景長にその地位を譲ることを前提としたものであったと見られている(黒田基樹「足利長尾氏に関する基礎的考察」(所収:荒川善夫 他編『中世下野の権力と社会 中世東国論3』(岩田書院、2009年) ISBN 978-4-87294-561-4))。</ref>。[[長享]]元年([[1487年]])、房清が[[扇谷上杉家]]の[[上杉定正]]と通じたために山内上杉家の当主である[[関東管領]][[上杉顕定]]に勧農城を攻撃される。これが、[[上杉氏]]の内紛である[[長享の乱]]の開始となった。[[明応]]4年([[1495年]])、[[岩松尚純]]が[[横瀬成繁 (室町時代)|横瀬成繁]]に攻撃されるとこれを救う。同年[[足利高基]]の[[元服]]の儀に家宰[[長尾顕忠]]に代わって参列し、これによって但馬守を受領した。本来、家宰が参加する古河公方家の元服に景長が参加した事実は、当時の景長の影響力の大きさを示していた。そして、この頃から当主としての活動が本格化する。
 
[[永正]]元年([[1504年]])の[[立河原の戦い]]で房清(房清は既に没してその子とも)が戦死すると、ようやく当主として自立する事が出来た。永正7年([[1510年]])の上杉顕定の没後、関東管領と山内上杉家当主の座を巡って[[上杉憲房 (戦国時代)|上杉憲房]]と[[上杉顕実]]が争ったときに[[横瀬景繁]]と共に憲房を擁立して顕実側の[[成田顕泰]]・[[長尾顕方]]と戦い、顕実の居城[[鉢形城]]を攻め落とした。憲房の勝利後、景長は顕実側の長尾顕方に替わって山内上杉家の家宰に任じられた([[永正の乱]])。
 
景長は画家としても優れており、彼が建立した[[長林寺]](栃木県足利市)には彼の自画像や山水図が遺されている。また、[[狩野正信]]とも親交があったとも言われている。