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文久3年(1863年)2月、吉村は藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。ちょうどこの時に京都では[[足利三代木像梟首事件]]が起き、犯人として[[平田国学]]門人らが捕縛された。3月、吉村は[[山縣有朋|山縣小輔]]、[[入江九一]]とともに[[学習院]]に犯人の赦免嘆願書を提出している。
 
同月、[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家茂]]が上洛し、朝廷から5月10日をもって攘夷決行をするよう約束させられる。5月10日、長州藩は攘夷を実行して[[関門海峡]]を通過する外国船を砲撃した。この長州藩の攘夷決行には[[侍従]]・[[中山忠光]]が参加しており、中山の京都出奔は吉村が手引きしている。6月、米仏艦隊が来襲し、長州藩は敗退した。吉村は[[松本奎堂]]、[[池内蔵太]]ら浪士とともに長州へ下り、藩主・[[毛利敬親|毛利慶親]]、世子・[[毛利定広|定広]]に謁見して、上京を説いている。吉村ら浪士たちは諸方を斡旋ののち、7月2日に海路京都へ戻った。
 
8月13日、[[三条実美]]ら攘夷派[[公卿]]が画策して大和行幸の詔が発せられた。[[孝明天皇]]が[[神武天皇]]陵に参拝し、攘夷親征を行うという内容で[[久留米藩|久留米]]の志士・真木和泉の献策によるものだった。吉村は松本奎堂、藤本鉄石ら同志とともに大和行幸の先駆けとして大和国で倒幕の義兵を挙げることを計画。14日、吉村は、先に長州に出奔していたことから侍従職を解かれ謹慎させられていた中山忠光の邸を訪ねて連れ出し、吉村、池ら同志39人が[[方広寺]]に集結して忠光を大将に戴き京都を出立した。一行は大坂から海路[[堺市|堺]]に向かい、一同は船中で髪を切って決意を表した。彼らは'''天誅組'''と称されるようになる。