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[[ファイル:Stefanie of Belgium.jpg|thumb|オーストリア皇太子妃ステファニー]]
'''ステファニー・ド・サクス=コブール・エ・ゴタ'''('''Stéphanie de Saxe-Cobourg et Gotha''', princesse de Belgique''', 1864年5月21日 [[ラーケン]] - 1945年8月23日 [[パンノンハルマ]])は、[[ベルギー]]王[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]とその王妃[[マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌ|マリー・ヘンリエッテ]]の間の次女。オーストリア皇太子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]に嫁いだ。全名はステファニー・クロティルド・ルイーズ・エルミーヌ・マリー・シャルロット(Stéphanie Clotilde Louise Hermine Marie Charlotte)。ドイツ語名は'''シュテファニー・フォン・ベルギエン'''('''Stephanie von Belgien''')。
 
[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の帝位・王位継承者であるルドルフ皇太子が両親から結婚するように迫られたとき、彼の妻に相応しい身分で、適齢期であり、血縁がさほど近くない[[カトリック教会|カトリック]]信徒の王女は、さしあたってベルギー王家の第2王女ステファニーだけであった。二人は1880年3月7日に婚約を発表したが、ステファニーがまだ幼すぎるため結婚は延期された。
 
1881年5月10日、ステファニーは17歳になる直前の若さでルドルフ皇太子と結婚した。オーストリア人の天文学者[[ヨハン・パリサ]]は、同年に自らが発見した[[小惑星]]に、新しい皇太子妃に因んだ「[[ステファニア (小惑星)|ステファニア]]」という名を付けた。
 
夫妻の結婚生活は新婚の時期を過ぎると幸福なものとは言えなくなった。それでもステファニーは1883年9月2日に[[ラクセンブルク宮殿]]で一人娘[[エリーザベト・マリー・ペツネック|エリーザベト・マリー]](1883年 - 1963年)を産んだ。1889年、夫のルドルフ皇太子が[[マイヤーリンク]]で17歳の[[マリー・ヴェッツェラ]]男爵夫人と一緒に死んでいるのが発見され、しかも二人の死は[[心中|情死]]であると考えられた。ステファニーは皇后となる望みを断たれたうえ、夫のスキャンダラスな死に方のせいで[[ウィーン]]宮廷からも遠ざかることを余儀なくされた。ステファニーと実父レオポルド2世との親子関係も険悪で、彼女は相続財産をめぐり父と法廷で争わねばならなかった
 
1889年、夫のルドルフ皇太子が[[マイヤーリンク]]で17歳の[[マリー・ヴェッツェラ]]男爵夫人と一緒に死んでいるのが発見され、しかも二人の死は[[心中|情死]]であると考えられた。ステファニーは皇后となる望みを断たれた上、夫のスキャンダラスな死に方のせいで[[ウィーン]]宮廷からも遠ざかることを余儀なくされた。ステファニーと父レオポルド2世との親子関係も険悪で、彼女は相続財産をめぐり父と法廷で争わねばならなかった。
1900年3月22日、ステファニーは[[トリエステ]]の[[ミラマーレ城]]において、[[ハンガリー]]貴族のローニャイ・エレメール伯爵([[:de:Elemér Lónyay|Elemér Lónyay]])と身分違いの再婚をした。実父レオポルド2世は娘の再婚を責めたが、オーストリア皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]は1917年にローニャイ伯爵を侯爵([[フュルスト]])に陞爵させている。ステファニーはローニャイ伯爵の居城オロスヴァール城(現在の[[スロヴァキア]]領[[ルソフツェ]])で後半生を送った。
 
1900年3月22日、ステファニーは[[トリエステ]]の[[ミラマーレ城]]において、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]貴族のローニャイ・エレメール伯爵([[:de:Elemér Lónyay|Elemér Lónyay]])と身分違いの再婚をした。実父レオポルド2世は娘の再婚を責めたが、オーストリア皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]は1917年にローニャイ伯爵を侯爵([[フュルスト]])に陞爵させている。ステファニーはローニャイ伯爵の居城オロスヴァール城(現在の[[スロバキア|スロヴァキア]]領[[ルソフツェ]])で後半生を送った。
 
1945年に[[赤軍]]が迫ると、夫妻は[[パンノンハルマの大修道院]]に避難し、ステファニーは同年8月23日に同修道院で亡くなった。