「中国学」の版間の差分

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中国からヨーロッパに帰国した宣教師たちは西欧におけるシノロジーの制度化の中心となった。この際とくに重視されたのが布教に不可欠な'''語学の修得'''である。[[1626年]]にはフランス人修道士[[ニコラ・トリゴー|トリゴー]]が『[[西儒耳目資]]』を[[杭州]]で刊行し漢字のアルファベット転写を試みた。[[1732年]][[ナポリ王国]]出身の宣教師マテオ・リパが、[[ナポリ]]に欧州大陸最初の中国学の学校(「中国学院」(今日の''[[:en:Universita degli studi di Napoli L'Orientale|Universita degli studi di Napoli L'Orientale]]''(ナポリ東方大学)の核))を創設した。イエズス会のマテオ・リパは、[[1711年]]から[[1723年]]にかけて康熙帝の[[満州]]宮廷で画家や銅版彫刻師として働いていた。[[1732年]]に中国から4人の若い中国人キリスト者を連れてナポリに帰国し、全員を中国語の教師とし、[[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]]の裁可を得て宣教師に中国語を教える学校を作り、中国でのキリスト教布教を支えた。
 
[[19世紀]]には[[イアキンフ・ビチュリン]]や[[パルラディ・カファロフ]]といった[[正教会]]の宣教師も、布教とともに中国研究を行っていた。パルラディ・カファロフの業績として[[元朝秘史]]の発見と出版が挙げられる。
 
===シノワズリと中国像の変容===