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'''ブラウンシュヴァイク公国'''(Herzogtum Braunschweig)は、[[ドイツ連邦]]、[[北ドイツ連邦]]、[[ドイツ帝国]]の[[領邦]]の一つ。[[1815年]]の[[ウィーン会議]]の結果、かつて[[神聖ローマ帝国]]の[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公国]]領だった地域を領土として創設された[[公国]]である。首都は[[ブラウンシュヴァイク]]。
 
== 歴史 ==
ヴォルフェンビュッテル公国は[[ナポレオン戦争]]で[[フランス第一帝政|フランス]]軍に占領され、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[衛星国|衛星国家]][[ヴェストファーレン王国]]に組み込まれた。ヴォルフェンビュッテル公[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=エールス公)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]はこれを認めず、ゲリラでナポレオンの支配に抵抗、[[1813年]]にヴォルフェンビュッテルへ復帰、ウィーン会議で公国に昇格、ブラウンシュヴァイク公国と改名された。
 
フリードリヒ・ヴィルヘルムは[[エルバ島]]からフランスに戻ったナポレオンと戦い、戦死したが、[[百日天下]]でナポレオンが[[セントヘレナ|セントヘレナ島]]へ流刑になり、長男の[[カール2世 (ブラウンシュヴァイク公)|カール2世]]がブラウンシュヴァイク公として即位した。幼少のため、成人するまでは同族で[[イギリス]]と[[ハノーファー王国]]の摂政[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ]](後のジョージ4世)が後見人となったが、成人後の統治は不評で、[[1830年]]にフランスで[[フランス7月革命|7月革命]]が勃発するとブラウンシュヴァイク市民が反乱を起こし、カール2世は退位に追い込まれ、弟の[[ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク公)|ヴィルヘルム]]に公位を譲って亡命した。ヴィルヘルムは統治は大臣に任せて自らは[[オレシニツァ公国|エールス公領]]で過ごした。
 
[[ドイツ統一]]では主導していた[[プロイセン王国]]に従い、[[ドイツ連邦]]、[[北ドイツ連邦]]、[[ドイツ帝国]]の[[領邦]]として存続した。ところが、子のないヴィルヘルムが同族の元ハノーファー王太子[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王太子)|エルンスト・アウグスト]]を後継者に迎えようとしたことからドイツ帝国との関係は悪化した。ハノーファー王国は[[普墺戦争]]で[[オーストリア帝国]]側につき、敗れてプロイセンに併合されていたからである。結果、[[1884年]]にヴィルヘルムが死去した時、ドイツ帝国はエルンスト・アウグストのブラウンシュヴァイク公位継承を却下、公国は君主不在のまま皇族の[[アルブレヒト・フォン・プロイセン (1837-1906)|アルブレヒト・フォン・プロイセン]]を摂政に置き、アルブレヒトの死後は[[ヨハン・アルブレヒト・ツー・メクレンブルク]]を摂政の地位に就けた。
 
ブラウンシュヴァイク公位の復活は[[1913年]]、ハノーファー王太子の同名の息子[[エルンスト・アウグスト (ブラウンシュヴァイク公)|エルンスト・アウグスト]]が[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の娘[[ヴィクトリア・ルイーゼ・フォン・プロイセン|ヴィクトリア・ルイーゼ]]と結婚したことで実現したが、[[第一次世界大戦]]末期の[[1918年]]で[[ドイツ革命]]が発生、ドイツ帝国が滅亡するとエルンスト・アウグストも僅か5年で退位、ブラウンシュヴァイク公国は[[ヴァイマル共和政]]の下[[ブラウンシュヴァイク州]]となった。
 
== 歴代君主 ==