「四国国分」の版間の差分

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== 補説 ==
=== 関ヶ原の戦いへの影響 ===
{{See also|四国攻め関ヶ原の戦い#毛利輝元の四国出兵}}
 
最初に「四国国分」の沙汰がなされた15年後の慶長5年([[1600年]])、[[美濃国]]の[[関ケ原町|関ヶ原]]で「天下分け目」の[[関ヶ原の戦い]]が起こったが、このとき大坂城にいた[[毛利輝元]]は四国地方への出兵を命じている。これは、秀吉亡きあとの西国を代表する[[五大老]]の一人として、また、西軍の総大将としての派兵命令であり、自身が豊臣政権における[[公儀]][[権力]]の代行者であることを、その根拠としていた。すなわち、土佐の長宗我部氏については軍役をもって動員し、讃岐の生駒氏や阿波の蜂須賀氏には圧力を加えて当主の生駒親正・蜂須賀家政を[[高野山]]に追放し、家臣団を派遣して両国の占領におよんだ。また、[[徳川氏|徳川]]方についた加藤嘉明・藤堂高虎の領国であった伊予に対しては積極的に調略をおこない、とくに加藤領に対しては河野氏の惣領格とみなされていた宍戸景世([[河野通軌]]か)を大将として直接兵力を送り込んでの激戦となった。美濃での関ヶ原本戦が1日で東軍勝利に決したため、撤兵したものの、輝元のこうした行動には「四国国分」の強い影響がみてとれる。