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'''淳于 瓊'''(じゅんう けい、? - [[200年]])は、[[中国]]の[[後漢]]時代末期の[[武将]]。[[字]]は'''仲簡'''<ref>《[[曹瞞伝]]》</ref>。なお、「淳于」が姓で「瓊」が名。淳于は[[漢人]]では珍しい「二字姓」の一つ。同時代に司空、司徒を務めた[[淳于嘉]]なる人物がいるが淳于瓊との関係は不明。▼
{{三国志の人物
|画像 =
|サイズ =
|説明 =
|王朝 =
|称号・役職 = 都督
|出生 = 生年不詳
|出身地 = [[豫州]]潁川郡▼
|死没地 = [[兗州]]陳留郡酸棗県烏巣
|ピン音 = Chúnyú Qióng
|字 = 仲簡
|諡号 =
|廟号 =
|別名 =
|特記事項 =
▲'''淳于 瓊'''(じゅんう けい、? - [[200年]])は、[[中国]]の[[後漢]]時代末期の[[武将]]。[[字]]は'''仲簡'''<ref>《[[曹瞞伝]]》</ref>>。[[豫州]]潁川[[郡]]の人。なお、「淳于」が姓で「瓊」が名。淳于は[[漢人]]では珍しい「二字姓」の一つ。同時代に司空、司徒を務めた[[淳于嘉]]なる人物がいるが淳于瓊との関係は不明。
== 正史の事跡 ==
▲| 淳于瓊
▲| 生年不詳 - [[200年]]([[建安 (漢)|建安]]5年)
▲| 豫州潁川郡
▲| [[霊帝 (漢)|霊帝]]→[[廃帝弁]]→[[袁紹]]
▲|}
=== 初期の事跡 ===
後漢の[[霊帝 (漢)|霊帝]]の時代、[[西園八校尉]]の一人として[[左軍校尉]]を務めた。霊帝の死後は[[廃帝弁]]に仕えたが、[[董卓]]の専横が始まると中央から逃れて[[袁紹]]配下の武将となる。
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