「大湯環状列石」の版間の差分

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== 概要 ==
遺跡は{{jdate|[[1931}}年]]([[昭和]]6年)に発見され、約130メートルの距離をおいて東西に対峙する野中堂と万座の環状列石で構成されている。この遺跡を全国的に有名にしたのは、終戦直後の{{jdate|[[1946}}年]](昭和21年)の発掘を、『科学朝日』が紹介したことである。そして、{{jdate|[[1951}}年]](昭和26年){{jdate|[[1952}}年]](昭和27年)には、文化財保護委員会と秋田県教育委員会が主体となって、本格的な学術調査が実施されている。
 
この遺跡は、山岳丘陵の末端にのびる舌状台地の先端部に造られており、河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が外帯と内帯の二重の同心円状(環状)に配置されている配石遺構である。その外輪と内輪の中間帯には、一本の立石を中心に細長い石を放射状に並べ、その外側を川原石で三重四重に囲んでいる。その形から「日時計」といわれており、万座と野中の両方の遺跡にある。
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大きい方の万座遺跡の環状直径は46メートルもあり現在発見されている中で日本で最大のストーンサークルである。組石は大きいほうの万座では48基、野中堂のほうは44基ある。それぞれの組石の下に墓壙があることから共同墓地と考えられている。中央の[[立石 (考古学)|立石]]は大湯の東方約7 - 8キロメートルにある安久谷(あくや)川から運んだと推定されており、労働力の集中が見られる。
 
遺跡の使用目的に関しては諸説あるが、近くには構造が似ている一本木後ロ遺跡があり、これは墓であることが調査によって明らかになっており、また配石遺構の下から副葬品をともなう土坑が発見されたため大規模な共同墓地と考えられている。さらに{{jdate|[[1948}}年]](昭和23年)から始まった万座の周辺調査から[[掘立柱建物]]跡群が巡らされていたことが明らかになり、これらは墓地に附属した葬送儀礼に関する施設ではないかと推測されている。
 
大湯環状列石には日時計状組石があり、この日時計中心部から環状列石中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっている。このような組石は[[北秋田市]]の[[伊勢堂岱遺跡]]にもある。