「大徳寺」の版間の差分
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建造物の説明が2箇所に重出のため纏める。後醍醐置文の説明修正。「法量」は本来、仏像の高さを表す語 |
→国宝: 径山興聖万寿禅寺リンク |
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:開祖宗峰妙超の[[頂相]]。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。
* 虚堂智愚墨蹟(きどうちぐぼくせき) - 1952年3月指定
:中国南宋時代(13世紀)の[[墨跡]]。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。[[虚堂智愚]]が[[達磨忌]]に際して記した[[香語]]で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる[[径山興聖万寿禅寺]]住職時代にあたる咸淳3年(南宋元号、1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の[[山上宗二]]から豊臣秀長家臣[[桑山重晴]]に伝授され、大徳寺に寄進されたという。
* 後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 1951年6月指定
:[[後醍醐天皇]]の[[宸翰]]。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。[[元弘]]3年([[1333年]])8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。
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