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径山興聖万寿寺リンク
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|説明文=費隠通容像自賛<ref>費隠50歳(崇禎15年5月・1642年)の誕生日に祝賀として[[張琦]]によって画かれ、その法嗣となった隠元によって日本に将来された。 </ref> [[張琦]]筆 絹本着色 [[萬福寺]]
|宗派=[[臨済宗]]天童派
|寺院=古黄檗山[[萬福寺 (中国福建省)|萬福寺]]・金粟山廣慧寺・天童山景徳寺・[[径山興聖万寿寺]]・虞山維摩院福巌寺 
|師=[[密雲円悟]]
|弟子=[[隠元隆琦]]
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崇禎6年(1633年)に密雲から萬福寺住持を継席。[[隠元隆琦]]を西堂としすぐのちに付法。崇禎10年(1637年)隠元に[[印可|源流]]と[[袈裟|法衣]]を授ける。
 
その後、[[温州]]府[[永嘉県]]法通寺・[[海塩県]]金粟山廣慧寺・[[寧波]]府[[鄞県]]天童山景徳寺・[[松江区|松江]]府[[華亭県]]超果寺・[[嘉興]]府[[崇徳県]]福巌寺・[[杭州]]府[[余杭県]][[径山興聖万寿寺]]・[[蘇州]]府[[常熟市]]虞山維摩院・[[淮安]]府[[塩城県]]永寧院などの寺院を積極的に巡り、臨済の法を伝え師密雲と並称された。
 
晩年は福巌寺に移り、[[順治]]18年3月29日([[1661年]])、示寂する。世寿69。
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== 五灯厳統 ==
[[順治]]10年(1653年)閏6月、費隠は法嗣[[百癡行先]]や[[檀越]]の徐昌治・李士材らと禅宗の史伝書『五灯厳統』を編修して刊行。[[南宋]]の『五灯会元』を引き継いだ南宋以後の僧伝を掲載した。その意図は禅林の乱れをくい止め嗣法伝承の正常化を目指すことにあったが、[[曹洞宗]][[遠門浄柱]]の『五灯会元続略』に対抗した内容となっており曹洞宗より臨済宗が優れていることを示した。すなわち六祖[[慧能|慧能曹溪]]下の[[南嶽懐譲|南岳]]系が[[青原行思|青原]]系より優位であり、さらに曹洞宗の[[晦台元鏡]]、[[永覚元賢]]は嗣法伝承されておらず、[[無明慧経]]、[[湛然円澄]]についてもその嗣法は不明確であると独自の主張を立てた。これに対して[[三宜明盂]]、遠門浄柱らが激しく対立し、その流通を阻止するために[[浙江省]]府に訴訟した。この結果、費隠は敗訴。『五灯厳統』の板木は焼毁処分となってしまう。費隠も[[径山興聖万寿寺]]を退出せざるを得なかった。その後、三宜明盂とは和解し費隠も径山住持として戻ることを許されている。
 
[[明暦]]3年(1657年)、費隠の法嗣[[隠元隆琦]]は[[逸然性融]]などの支持を受けて摂津普門福元寺(現[[大阪府]][[高槻市]][[普門寺 (高槻市)|普門寺]])において『五灯厳統 』を重刻した。『五灯厳統 』は日本で広く読まれ、覆刻本が大陸にも伝わった。