「ヨハン・シャイン」の版間の差分

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== 生涯 ==
グリュンハイン([[:de:Grünhain|Grünhain]])に生まれたシャインは父の死をきっかけに[[ドレスデン]]へ移り、その地で[[ザクセン君主一覧#ザクセン選帝侯|ザクセン選帝侯]]の聖歌隊にボーイソプラノとして参加した。シャインは聖歌隊員として歌うのと同時に、その並外れた才能を見抜いた[[カペルマイスター]]のRogier Michaelに音楽教育を受けた。彼は[[1603年]]から[[1607年]]にかけて[[プフォルタ校]]([[:en:Pforta|Pforta]])で勉強し、その後[[1608年]]から[[1612年]]まで[[ライプツィヒ大学]]に通い、ここでは一般教養に加えて法学も勉強した。卒業後、シャインはすぐにゴットフリート・フォン・ヴォルファースドルフ(Gottfried von Wolffersdorff)[[音楽監督]]兼[[家庭教師]]として雇われた。その後彼は[[ヴァイマル]]のカペルマイスター[[宮廷楽長]]となり、それから間もない[[1615年]]に[[ライプツィヒ]]で[[聖トーマス教会]]の音楽監督である[[トーマスカントル]]の地位につき、同時に[[音楽監督|ライプツィヒ市音楽監督]]となる。シャインは残りの生涯にわたってこの地位にあった(およそ1世紀後に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]がこの地位に就任している)。
 
友人であった[[ハインリヒ・シュッツ]]と異なり、シャインは生涯にわたり病気に苦しめられ、幸福で長い生涯をおくることが出来なかった。彼の妻は子供の出産時に亡くなり、5人いた彼の子供のうち4人が幼少期に亡くなっている。シャイン自身もまた、[[結核]]・[[痛風]]・[[壊血病]]および[[腎臓]]の病気を患った末、44歳で死去している。