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『[[黒田長興]]一世之記』によれば寛永14年([[1637年]])10月、口の津村の庄屋与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。庄屋宅では人々が何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう納めるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。[[10月25日]]、耐えかねた領民はついに蜂起し、代官を殺害した。これが[[島原の乱]]の始まりである。
乱の鎮圧後
彼には二人の弟がいたが、次弟・重利は讃岐国、会津国と預けられ、[[明暦]]元年([[1655年]])に自殺。末弟・三弥は命は助けられたものの浪人となってしまい、松倉家は断絶し、[[高力忠房]]が[[遠江国]][[浜松藩]]より[[転封|移封]]されて島原藩を継いだ。次弟の重利の系統は300俵の旗本として存続している。
{{島原藩主|松倉氏|2代|1630-1638}}
{{デフォルトソート:まつくら かついえ}}
[[Category:松倉氏|かついえ]]
[[category:江戸の大名
[[category:外様大名
[[Category:刑死した人物
[[Category:1597年生
[[Category:1638年没
[[de:Matsukura Katsuie]]
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