「華厳宗」の版間の差分

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[[中国]]において、[[大乗]][[仏典]]の代表的な'''[[華厳経]]'''を究極の経典として、その思想を拠り所として独自の教学体系を立てた宗派。開祖は[[杜順]]([[557年]]-[[640年]])、第2祖は[[智儼]]([[602年]]-[[668年]])、第3祖は[[法蔵 (唐)|法蔵]]([[643年]]-[[712年]])、第4祖は[[澄観]]([[738年]]-[[839年]])、第5祖は[[圭峰宗密 |宗密]]([[780年]]-[[839年]])と相承されている。この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの[[馬鳴]](アシュバゴーシャ。カニシュカ王の友人。)と[[龍樹]](ナーガルジュナ)を加えて七祖とすることもある。また[[朝鮮半島]](古代[[新羅]])にも伝わっている。
 
[[日本]]における華厳宗は、第3祖法蔵門下の'''[[審祥]]'''(しんしょう・しんじょう)によって[[736年]]に伝えられた。金鐘寺(後の[[東大寺]])の[[良弁]]の招きを受けた審祥は、この寺において'''華厳経'''・'''梵網経'''に基づく講義を行い、その思想が反映されて'''[[東大寺盧舎那仏像]]'''(奈良の大仏)が建立([[743年]]-[[749年]])された。[[鎌倉仏教]]期には、[[明恵]]によって[[密教]]思想が取り込まれ、さらに[[凝然]](ぎょうねん)による教学の確立がなされている。[[法相宗]]と並ぶ、主な[[南都六宗]](なんとりくしゅう)の一つ。
 
華厳宗の本尊は歴史上の仏を超えた絶対的な'''[[毘盧遮那仏]]'''(びるしゃなぶつ)と一体になっている。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、[[善財童子]]の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。東大寺の大仏も本経の教主・毘盧舎那仏である。
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[[天台宗]]の[[教相判釈]](経典の内容を分析し、成立の順序や内容の高低を判定する)・[[五時八教の教判]](天台大師[[智顗]]による)では、華厳経は最初に説かれ、仏のさとったままの言葉を記したもので、[[凡夫]]には理解しがたいものとしている。
 
華厳宗では[[賢首大師法蔵]]が[[華厳五教章]]のなかで[[五教十宗判]]の教相判釈を行い、華厳経および華厳宗を最高の教え([[別教一乗]])と位置づけ、そもそも仏が悟った一乗真実は、理として頭で解する必要はなく、ただ肉体で体験すべきものだと考える。よって天台宗は、華厳宗やその影響の下に成立した禅宗の立場からは、心身不可分ということが不徹底な、学問仏教であるという批判がなされる。
 
一方天台宗側からは、この華厳宗の立場は、学問的に理で解するという方便がないと凡夫には入門しがたく、その意味で華厳宗は現実と遊離しがちな理想論だという反論がなりたつ。