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{{ActorActress
'''レオ・マッケリー'''('''Leo McCarey'''、[[1898年]][[10月3日]] - [[1969年]][[7月5日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]。本名はThomas Leo McCarey。
| 芸名 = Leo McCarey
| ふりがな = レオ・マッケリー
| 画像ファイル =
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = Thomas Leo McCarey
| 出生地 = [[カリフォルニア州]] [[ロサンゼルス]]
| 死没地 =
| 国籍 =
| 生年 = 1898
| 生月 = 10
| 生日 = 3
| 没年 = 1969
| 没月 = 7
| 没日 = 5
| 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]
| 活動期間 =
| 配偶者 =
| 家族 =
| 公式サイト =
| 主な作品 =
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br />1937年『[[新婚道中記]]』<br />1944年『[[我が道を往く]]』<br />'''原案賞'''<br />1944年『[[我が道を往く]]』
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第10回ニューヨーク映画批評家協会賞|1944年]]『[[我が道を往く]]』
| その他の賞 =
| 備考 =
}}
'''レオ・マッケリー'''({{en|'''Leo McCarey'''}}, [[1898年]][[10月3日]] - [[1969年]][[7月5日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]。本名はトーマス・レオ・マッケリー({{en|Thomas Leo McCarey}})
 
== 人物・経歴 ==
[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]生まれ。[[カトリック]]の教育を受けて育ち、弁護士を目指し、[[南カリフォルニア大学]]を卒業後、弁護士業につくが上手くいかず、一攫千金を夢見て鉱山開発の事業に手を出すもこれもまた失敗。[[1918年]]に友人の伝手で[[ユニヴァバーサル・ピクチャーズ|ユニバーサル映画]]に入社、[[1920年]]に[[トッド・ブラウニング]]の助監督につき、その演出スタイルに影響を受ける。
 
[[1923年]]には[[ハル・ローチ]]の誘いでちびっこギャングシリーズはじめ多くのコメディアンたちのギャグ・ライターとして才能を発揮。短編映画の製作や監督を5年間に300本も手掛けるようになり、特にスタン・ローレルとオリバー・ハーディという名コンビを生み出して、極楽危機一髪」「』『極楽珍商売といったいくつもの傑作を発表、[[ローレル&ハーディ]]と共にマッケリーも[[スラップスティック・コメディ]]の名手として一時代を築く。ちなみにこの時代に彼らの映画に撮影係として主に加わっていたのが、のちに名匠となる[[ジョージ・スティーヴンス]]だった。
 
これらの功績からマッケリーはハル・ローチ撮影所の副社長に就任。映画がトーキーの時代に入っても、[[エディ・カンター]]主演カンターの闘牛士、[[メイ・ウエスト]]主演罪ぢゃないわよ、三大喜劇王のひとり[[ハロルド・ロイド]]主演ロイドの牛乳屋、[[マルクス兄弟]]の我輩はカモであるなど当時の第一級だったコメディアンの主演作を次々と手掛ける。
 
ドタバタ喜劇を主に得意としたマッケリーだったが、[[1935年]]の[[チャールズ・ロートン]]主演の人生は四十二からはそれまでの作風とはうって変わり、アメリカン・デモクラシーを高らかに謳い上げている作品となり、これ以降、マッケリーはそれまで主流だったスラップスティックな笑いから[[フランク・キャプラ]]のようなセンチメンタルでヒューマニズムあふれる作品を撮るようになる。
 
[[1937年]]には[[スクリューボール・コメディ]]新婚道中記を発表して見事[[アカデミー監督賞]]を獲得、しかし本人としては同じ年の、老夫婦の目を通して社会改良論者的なテーマを盛り込んだ明日は来らずの方が自信作であったが、興業的にも惨敗してしまい、マッケリーは「本作の方に賞が与えられるべきだった」と言ったという。ちなみに本作は[[小津安二郎]]の代表作[[東京物語]]に大きく影響を与えた作品といわれている。続いて[[1939年]]に[[メロドラマ]]の古典的名作『[[邂逅(めぐりあい)」]]』を手掛ける。
 
[[1944年]]には当時絶大な人気を誇っていた歌手で俳優としてもミュージカルやコメディに出演していた[[ビング・クロスビー]]を主役に迎え、下町の教会を舞台にした人情喜劇の傑作我が道を往くを監督、映画は大ヒットを記録し、さらにアカデミー賞7部門を獲得し、マッケリーも2度目の監督賞を受賞するなど名声を決定付けた。またこの成功でビング・クロスビーは性格俳優として確固たる地位を築く。この映画のヒットで翌[[1945年]]、主演のクロスビーに[[イングリッド・バーグマン]]を共演に迎えて続編[[聖メリーの鐘]]を監督し、前作以上の成功を収める。またこの時期には全米の長者番付第一位に輝いた。
 
1950年代は次第にキャリアが低迷するも、[[1957年]]に邂逅を[[ケーリー・グラント]]と[[デボラ・カー]]を起用して自らリメイクしためぐり逢いを発表、いささかも演出力が衰えていないことをアピールし、マッケリーとして晩年の傑作となる。しかし、この時期、ハリウッドでは[[赤狩り]]の真っ只中で、この時期の作品のほとんどが反共産主義色の映画だった。誘惑の夜が遺作となり、[[1969年]]に死亡するが、それまでの20年間にマッケリーが監督した作品はわずか6本であり、全盛期にキャリアに比べると寂しいものであった。
 
== 主な監督作品 ==
*[[極楽島満員]] ''[[:en:Let's Go Native|Let's Go Native]]'' (1930)
*[[カンターの闘牛士]] ''[[:en:The Kid from Spain|The Kid from Spain]]'' (1932)
*[[我輩はカモである]] ''[[:en:Duck Soup|Duck Soup]]'' (1933)
*[[罪ゃないわよ]] ''[[:en:Belle of the Nineties|Belle of the Nineties]]'' (1934)
*[[ヒョットコ人組]] ''[[:en:Six of a Kind|Six of a Kind]]'' (1934)
*[[人生は四十二から]] ''[[:en:Ruggles of Red Gap|Ruggles of Red Gap]]'' (1935)
*[[ロイドの牛乳屋]] ''[[:en:The Milky Way (1936 film)|The Milky Way]]'' (1936)
*[[新婚道中記]] ''[[:en:The Awful Truth|The Awful Truth]]'' (1937)
*[[明日は来らず]] ''[[:en:Make Way for Tomorrow|Make Way for Tomorrow]]'' (1937)
*[[邂逅]] ''[[:en:Love Affair (1939 film)|Love Affair]]'' (1939)
*[[我が道を往く]] ''[[:en:Going My Way|Going My Way]]'' (1944)
*[[聖メリーの鐘]] ''[[:en:The Bells of St. Mary's|The Bells of St. Mary's]]'' (1945)
*[[善人サム]] ''[[:en:Good Sam|Good Sam]]'' (1948)
*[[めぐり逢い (1957年の映画)|めぐり逢い]] ''[[:en:An Affair to Remember|An Affair to Remember]]'' (1957)
*[[誘惑の夜]] ''[[:en:Satan Never Sleeps|Satan Never Sleeps]]'' (1962)
 
== 外部リンク ==
*{{imdb name|id=0564970|name=Leo McCarey}}
 
{{DEFAULTSORT:まつけりい れお}}
{{レオ・マッケリー}}
{{アカデミー賞監督賞 1927-1940}}
{{アカデミー賞監督賞 1941-1960}}
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]
[[Category:アメリカ合衆国の脚本家]]
[[Category:アメリカ合衆国の映画プロデューサー]]
[[Category:1898年生]]
[[Category:1969年没]]