「埼玉県立熊谷高等学校」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1895年]](明治28年)、埼玉県の第二尋常中学校として創設された。これは、県下の公立校として埼玉県第一尋常中学校(現[[埼玉県立浦和高等学校]])に次ぐものである。戦後、新制埼玉県立熊谷高等学校となった。開学以来男子校である。早くから私服での登校が認められている。なお平成22年度より県の進路指導重点校の指定をうけた。
 
;校訓
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;通称
近年では'''くまたか'''とされていることが多いが、伝統的には'''くまこう'''であった。これは、かつて「工業」と通称されていた[[埼玉県立熊谷工業高等学校|熊谷工業高校]]に「熊工(くまこう)」の通称が用いられるようになったため、両校を明確に区別するために次第に変化していったものである。ただし、校歌に「熊高(くまこう)」と歌われているように、当校生徒や教員など学校関係者は'''くまこう'''が用いられることが好まれ、'''くまたか'''が用いられることは極めてまれであるという矛盾が生じている。
 
== 学校行事 ==
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== 授業 ==
医歯薬科系進学クラスを設置しているほか、少人数授業を実施している。また、土曜日の授業が隔週で行われており、河合塾講師による紫雲塾がある。
 
== 進学実績 ==
<!--編集合戦を避けるために国公立大学や難関私立大学に具体例を併記しないよう改めました。代わりに最新年度の具体的な数値を挙げています。-->
<!--「代わりに最新年度の具体的な数値を挙げています。」とのことです-->
例年、国公立大学に'''現役・浪人'''あわせて百名程、'''現役'''のみでは数十名程度の生徒が進学している。なお、2010年の主な難関大学の合格者を一例に挙げると、[[東京大学]]3名(1)、[[京都大学]]0名(1)、[[東北大学]]4名(5)、[[北海道]]1名(3)、[[東京工業大学]]1名(2)、[[一橋大学]]0名(3)、[[筑波大学]]7名(3)、[[埼玉大学]]10名(8)、[[早稲田大学]]22名(25)、[[慶應大学]]14名(13)などであった<ref>{{Cite web
|url=http://www.kumagaya-h.spec.ed.jp/zennichi/shinro/22nyushi_sokuho%203rd.html
|language=日本語
|title=熊谷高校 平成22年度大学入試結果速報
|work=熊高公式ホームページ
|accessdate=2009-04-18
}}</ref>。(括弧内浪人)
 
現役での国立大進学率は13.6%である<ref>募集定員全日357名、定時40名、国立大(文科省管轄外大学校を除く)進学数54名より</ref>。また,現役での国立大医学部医学科進学率は0.2%である<ref>募集定員全日357名、定時40名、国立大医学部医学科(文科省管轄外大学校を除く)進学数1名より</ref>。
 
また、1950年から2009年の東京大学累計合格者数は444名であり、これは埼玉県内では浦和高校に次いで2番目に多いものである<ref>小林哲夫『東大合格高校盛衰史 60年間のランキングを分析する』 光文社新書 2009</ref>。
2010年の東大現役合格者数は3名であり、県内では[[埼玉県立浦和高等学校|浦和高校]]29名、[[埼玉県立大宮高等学校|大宮高校]]16名、[[西武学園文理中学校・高等学校|西武文理高校]]7名、[[栄東高等学校|栄東高校]]7名、[[埼玉県立川越高等学校|川越高校]]5名に次いでの第6位<ref>http://plaza.rakuten.co.jp/ryuivhi/diary/201003120000/</ref>と衰退している.
 
== 設備 ==
校舎は、各教室が集まるホームルーム棟(4階建て)、職員会議室などがある本館(3階建て)、そして各種理科室などがある理科棟(3階建て)の3つがある。このうち本館は1980年に竣工したものであるが、かつての本館(木造2階建て)は1978年3月18日に焼失した。なお、校歌に歌われている「赤甍」とは旧本館のそれを指し、現在の本館の赤甍風の屋根はそれの模倣である。理科棟を除き全館冷暖房完備。このほか、屋内型温水プール、記念館(図書館)、学生食堂、合宿棟などの設備があり。2009年8月には理科棟の床の張替が行われた。
 
== 校歌・応援歌 ==
; 校歌(作詞:石坂養平、作曲:[[山田耕筰]]
: 埼玉県内の旧制中学校の流れを汲む学校としては唯一新制高校の校歌を新作したが、当時音楽教員であった荒井敬正が山田耕筰との間に交流があったことから作曲されたという経緯がある。<ref>『熊谷高校百周年誌』「甲子園大会出場と新校歌の誕生」(記:鈴木長作)606-608頁</ref>。応援歌では六校応援団による「日輪の下に」や熊谷高校応援団披露「勝利の伝統」があり、部活動応援で生かされる。