「ヴィルヘルム5世 (バイエルン公)」の版間の差分

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[[画像:William v.jpg|thumb|200px|バイエルン公ヴィルヘルム5世]]
[[画像:Wilhelm V Bayern MATEO.jpg|thumb|200px|バイエルン公ヴィルヘルム5世]]
'''ヴィルヘルム5世'''(Wilhelm V., [[1548年]][[9月29日]] - [[1626年]][[2月7日]])は[[バイエルン大公|バイエルン公]](在位:[[1579年]] - [[1597年]])。[[アルブレヒト5世 (バイエルン公)|アルブレヒト5世]]と[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]の娘[[アンナ・フォン・エスターライヒ (バイエルン公妃)|アンナ]]の子。
 
[[1583年]]、弟の[[エルンスト・フォン・バイエルン (1554-1612)|エルンスト]]を[[ケルン大司教]]([[選帝侯]])に選出させた。しかし、[[プロテスタント]]に転向していた前選帝侯[[ゲプハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルク]]が[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]などプロテンスタント勢力の力を借りて反乱を起こしたため、ヴィルヘルム5世はエルンストに与してゲプハルトを追放、[[1588年]]にエルンストの選帝侯位を万全にした。これ以降、ケルン選帝侯は事実上[[ヴィッテルスバッハ家]]の世襲となっていった。
'''ヴィルヘルム5世'''(Wilhelm V., [[1548年]][[9月29日]] - [[1626年]][[2月7日]])は[[バイエルン大公|バイエルン公]](在位:[[1579年]] - [[1597年]])。[[アルブレヒト5世 (バイエルン公)|アルブレヒト5世]]と[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]の娘[[アンナ・フォン・エスターライヒ (バイエルン公妃)|アンナ]]の子。
 
[[1583年]]、弟の[[エルンスト・フォン・バイエルン (1554-1612)|エルンスト]]を[[ケルン大司教]]([[選帝侯]])に選出させた。しかし、[[プロテスタント]]に転向していた前選帝侯[[ゲプハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルク]]が[[オランダ]]等プロテンスタント勢力の力を借りて反乱を起こした為、ヴィルヘルム5世はエルンストに与してゲプハルトを追放、[[1588年]]にエルンストの選帝侯位を万全にした。これ以降、ケルン選帝侯は事実上[[ヴィッテルスバッハ家]]の世襲となっていった。
 
幼少期から[[イエズス会]]の教育を受けていた影響でバイエルンに[[対抗宗教改革]]をもたらし、カトリック系大学や聖ミヒャエル教会が設立されたが、財政は大幅に傾き、事態を危ぶんだ息子の[[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン]]によって1597年に退位させられた。以後は信仰に余生を送った。
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== 子女 ==
[[1568年]]に[[ロレーヌ公]][[フランソワ1世 (ロレーヌ公)|フランソワ1世]]の娘[[レナータ・フォン・ロートリンゲン|レナータ]]と結婚した。彼女との間に10人の子を生んだ。
 
*クリストフ(1570年、夭折)
*クリストフ(1572年 - 1580年)