「富岡定俊」の版間の差分

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[[フランス]]駐在([[国際連盟]]海軍代表部)、「[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]」航海長、[[軍令部]]出仕兼[[参謀]]、第7戦隊参謀、[[海軍省]]人事局第1課局員、[[第二艦隊 (日本海軍)|第2艦隊]]参謀、海大教官、軍令部第1部第1課長を歴任、「[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]」[[艦長]]、[[南東方面艦隊]]参謀副長などを歴任し、[[1943年]]11月、海軍少将に進級。南東方面艦隊兼[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第11航空艦隊]]参謀長を経て、終戦時には軍令部第1部長であった。[[1945年]][[8月16日]]、特攻隊の創設・運用の全責任を取って自決された[[大西瀧治郎]]海軍中将の残された遺書([http://ja.wikiquote.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E ウィキクォート:大西瀧治郎]に全文有り)には、定俊宛てに軍務の補佐に対しての深い感謝の旨の一筆が添えてあった。同年9月、[[アメリカ海軍]]の[[戦艦]][[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]で行われた[[降伏文書]]調印式には随員として参加している。戦後、海軍省出仕(資料調査)、[[第二復員省]]大臣官房史実部長を歴任。[[資料調査会]]理事長を勤めた。
 
== 人物 ==
富岡は海大を首席卒業しているが、その成績は空前の好成績であり、入学席次もトップであった。兵学校の卒業席次は20番であったが、父の死去により試験を受けていないためである。[[尉官]]時代は陽の当たらない配置が続き海軍を辞めることまで考えたが、[[鈴木貫太郎]]の説諭により思い止まった。
富岡は海大戦略教官のとき、戦略物資の研究に励み、米の需要を満たすためには南部仏印が必要であるとの結論に至る。「戦術」に偏りがちであった海軍軍人の中で、「戦争」研究に着目していたことは評価されている。
しかし、物資や船舶を担当する軍令部第四課長[[栗原悦蔵]]の会議出席を阻止、石油貯蔵量の情報操作をするなど第一委員会の中でも[[石川信吾]]と並ぶ対米強硬派として活動した。[[半藤一利]]は日米戦争に導いた確信犯であると批判している。
軍令部作戦課長時代は[[山本五十六]]の主導する[[真珠湾攻撃]]に反対し、また[[ミッドウェイ]]攻略にも批判的であり、山本五十六を「大戦略構想を知らぬもの」と批判している。
 
富岡は日米戦争を有限戦争であり、無限戦争に至ることなく講和が可能であるとの判断をしていたが、その見通しを誤ったことを後悔していた。
 
== 著書 ==
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* 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、[[2000年]]。
* [[秦郁彦]]編『日本陸海軍総合事典』第2版、[[東京大学出版会]]、[[2005年]]。
* [[児島襄]]『参謀 (上)』、[[文春文庫]]
* [[吉田俊雄]]『海軍参謀』、文春文庫
* 吉田俊雄『五人の海軍大臣』、文春文庫
* [[保坂正康]]『昭和の戦争』、朝日文庫
 
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