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'''ララ物資'''(ららぶっし)とは、'''ララ'''(LARA;'''L'''icensed '''A'''gencies for '''R'''elief in '''A'''sia:アジア救援公認団体)提供していた日本向けの援助物資のこと。
 
== 概要 ==
ララは[[アメリカ合衆国]]救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日系米国人の日本向け援助団体。
[[ファイル:LARA monument Yokohama Japan.JPG|thumb|[[2001年]]に建立された[[神奈川県]][[横浜市]]の新港埠頭にあるララ物資の記念碑。<ref>記念碑についての詳しい内容は横浜市の[http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/sighthist/etizu/01/hi009.html 中区の歴史を碑もとく絵地図]を参照。</ref>]]
 
ララは[[アメリカ合衆国]]救済統制委員会が[[1946年]]6月に設置を認可した日系米国人の日本向け援助団体。1946年[[1月22日]]にアメリカ[[サンフランシスコ]]在住の[[日系人]][[浅野七之助]]が中心となって設立した'''「日本難民救済会」'''を母体としている。
 
南北アメリカ大陸在住の日系人が寄附の中心となり、主な支援物資は長期間の輸送を考慮して[[脱脂粉乳]]と衣類であった。
 
当時アメリカにおける対外的な慈善活動は海外事業篤志団アメリカ協議会(''American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad'')が担っていたが、その対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。そのため、日本に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立する必要があった。反日感情が残るなかでの「アジア救援公認団体」認可に際しては知日派の[[キリスト友会]]員の協力によるところが大きい。
 
主な支援物資は長期間の輸送を考慮して[[脱脂粉乳]]と衣類であった。多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、推定で当時の400億円という莫大な金額であったと言われている。
なお、日本国内での物資配付にあたっては[[連合国軍最高司令官総司令部]]の意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付された。
 
なお南北アメリカ大陸在住の日系人が寄附の中心であったが、日本国内での物資配付にあたっては[[連合国軍最高司令官総司令部]]の意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付された。
 
== 年表 ==
*1946年[[11月30日]] 第一便(ハワード・スタンズペリー号)が横浜港に到着。
*1946年[[12月24日]] [[東京都]]永田町小学校において贈呈式が実施。
*[[1947年]][[7月31日]] [[衆議院]]本会議において感謝決議(救援物資の寄贈に関し亜細亜救援公認團体に対する感謝決議)がされた。
*[[1948年]] 東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の6大都市の約300カ所の保育所でララ物資による給食が開始
*[[1952年]] ララ物資の終了
 
== 脚注 ==
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==関連項目==
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*[[エロア資金]]
*[[学校給食記念日]]
 
==外部リンク==
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/hanashi/story/1_2.html 国際協力ちょっといい話] - [[外務省]]
* [http://www32.ocn.ne.jp/~abcq/lara/lara.htm 「ララ物資」の事を調べています。] - ララ物資に関しての他に、体験談もあり。
* [http://jacircle.blogspot.com/2010/08/blog-post_05.html JA Circle - 敗戦、貧困、ララ物資:上]
 
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