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Ike179 (会話 | 投稿記録)
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|利き腕 = 右
|打席 = 左
|守備位置 = [[二塁手]]、[[三塁手]]、[[遊撃手]]、[[左翼手]]
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1987}}
|ドラフト順位 = ドラフト1位
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[[開幕戦]]でも[[スターティングメンバー|スタメン]]でフル出場(高卒新人としては球団史上唯一)。開幕戦先発出場の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]高卒新人は、[[阪神タイガース|阪神]]の[[並木輝男]]、[[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[王貞治]]以来29年ぶり3人目。パリーグを含めても、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]の[[飯田幸夫]]以来22年ぶり。立浪以降も、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]の[[銀仁朗]]まで18年間出現しなかった。[[横浜ベイスターズ|大洋]]の[[欠端光則]]から6回裏の第3打席に初安打となる[[二塁打]]を放ち(通算二塁打'''487'''本の1本目)、4番・[[落合博満]]の[[適時打|タイムリーヒット]]で生還し初[[得点]]も記録した。当時の応援歌は[[光GENJI]]の「[[ガラスの十代]]」の替え歌。
 
[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]には遊撃手部門でファン投票選出され、全セ監督の王から3試合連続で出場機会を与えられた。[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]]での第1戦では8回表[[代打]]で[[津野浩]]からオールスターゲーム初打席初安打、[[ナゴヤ球場]]での第2戦では2番・遊撃手でスタメン出場したが3打数無安打に終わった(初回裏に第1打席で相手先発[[阿波野秀幸]]に外野フライに仕留められ40歳[[門田博光]]が捕球)。[[東京ドーム]]での第3戦3回表2死無走者の場面で同僚でもある[[小野和幸]]への代打で起用され相手先発で打者8人をパーフェクトに抑えていた先発[[西崎幸広]]に三振を喫した。
 
レギュラーシーズン110試合出場し[[打率]].223ながら、22[[盗塁]]、21[[犠牲バント|犠打]]を記録し、中日のリーグ優勝に貢献、[[1988年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]には全試合先発出場した。守備・走塁技術を高く評価されて[[最優秀新人 (野球)|新人王]]を受賞。また、高卒新人としては初の[[ゴールデングラブ賞]]を受賞した。[[日本赤十字社]]のイメージキャラクター就任。
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{{by|1993年}}6月11日からシーズン守備機会連続無失策を続け、それまでの記録を更新。シーズン[[守備率]].997を残し、記録を継続したままシーズンを終える。
 
{{by|1994年}}6月11日の対巨人戦で[[松井秀喜]]の放った強烈な打球を弾いて失策を記録、無失策記録は712回でストップしたが監督の[[高木守道]]及びコーチの[[徳武定祐]]が現役時代に記録した数字を上回るものだった(この記録は後に[[関本賢太郎|関本健太郎]]に破られる)。[[10.8決戦]]では8回裏先頭打者として桑田真澄から内野安打を打った際に[[原辰徳]]守る一塁に[[ヘッドスライディング]]し左肩を脱臼して[[代走]][[鳥越裕介]]と交代し負傷退場した<ref>[http://radio.commufa.jp/tokai/guts1990.html ブロードバンド東海ラジオ ガッツナイタープレイバック1990年~1994年] コミュファラジオ</ref>。また、この脱臼の後遺症として左肩は痛いままだと本人は引退後に語っている。
 
{{by|1995年}}には2度目のゴールデングラブ賞を受賞。この年から3年連続で受賞する。
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{{by|2002年}}シーズン当初は5番打者を任されたが、[[レオ・ゴメス]]の帰国に伴い7月7日から4番打者を任される。この年はチーム最多、自己最高の打点をマーク。5月21日には[[五十嵐亮太]]から自身初となるサヨナラ満塁本塁打を放った<ref>[http://radio.commufa.jp/tokai/guts2000.html ブロードバンド東海ラジオ ガッツナイタープレイバック2000年~2004年] コミュファラジオ</ref>。
 
{{by|2003年}}7月5日の対巨人戦(東京ドーム)で、PL学園の先輩である[[清原和博]]の前で[[猛打賞]]を記録し2000本安打を達成。同試合後に[[日本プロ野球名球会]]入会記者会見。同年、三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞した。通算では史上初の3つのポジション(遊撃手・二塁手・三塁手)で受賞の快挙となった。直後の[[2003年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも監督推薦で選出され、[[大阪ドーム]]での第1戦8回先頭打者で[[辰徳]]に代打で起用され、[[斉藤和巳]]から二塁打を放った。オフに球団選手会長を[[井端弘和]]に譲る。
 
{{by|2004年}}は5月と6月に[[最優秀選手 (野球)#月間MVP|月間MVP]]を獲得し、チームを5年ぶりのリーグ優勝に導き2度目のベストナインに選出される。[[2004年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]第2戦(ナゴヤドーム)7回裏、[[松坂大輔]]から同点弾となる3ラン本塁打を放ち勝利に貢献したが、同シリーズは3勝4敗で惜敗。
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その後も10月4日の対阪神最終戦(甲子園球場)や、10月11日の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]とのレギュラーシーズン最終戦([[明治神宮野球場]])で代打出場して凡退した。4日は[[桧山進次郎]]から、11日は[[宮本慎也]]から、花束が贈呈された。レギュラーシーズンでの現役最終打席は9回表2死無走者の場面で[[押本健彦]]から二飛を打ち、前年までの同僚[[森岡良介]]が捕球した。また10月24日の東京ドームでの[[2009年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]第4戦9回表、7番・[[藤井淳志]]の代打として出場が最終打席となり、[[マーク・クルーン]]に左飛に仕留められたが、両チームの観客から盛大な拍手が送られ、ベンチに戻る際に帽子を取り挨拶をし、その後一礼をしてベンチに戻った。
 
ドラゴンズファンの間で「背番号'''3'''を[[野球界の永久欠番|永久欠番]]に」という運動が沸き起こり、[[署名]]活動も行われたが、2010年からは森野将彦が受け継ぐことが球団から一旦発表された。しかし、森野の要望により2010年は欠番扱いとなった<ref>[http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/dragons/news/2009/200912/CK2009121002000033.html 森野、背番号「3」返上] 中日スポーツ 2009年12月10日</ref>。
 
2010年1月6日、ナゴヤドームで「立浪選手に感謝する会」が開催された。2月27日にロッテとのオープン戦で引退記念試合を行った。2010年1月26日、同じく前年限りで現役引退した[[赤星憲広]]・[[清水崇行]]と共に日本テレビのプロ野球中継解説者となることが発表された(主に中日戦。ただし、中京テレビは中日主管試合の放映権なし)。ゲスト解説者として[[中部日本放送|CBC]]のテレビ・ラジオの中継にも不定期出演する。また、片岡篤史の後任として[[北海道文化放送]]の「[[スポーツワイド Fの炎〜SPORT HOKKAIDO〜|スポーツワイド Fの炎]]」のレギュラー解説者にも起用された。