削除された内容 追加された内容
浮いていた戦略節を生涯に組み込む
m編集の要約なし
74行目:
 
==生涯==
1886年12月1日、現在の[[四川省]][[南充市]]儀隴県にて生まれる。生家は[[客家]]の小作農であり、貧農であった。伯父の朱世林は才気煥発なこの甥をかわいがり、5歳で山菜取りをしなければ生活できない環境の朱徳に教育の機会を与えた。これが朱徳の人生に大きな影響を与える事となる。
 
[[成都]]の高等師範学校を卒業し、体育教官となった。この頃には、地下結社である[[洪門#哥老会|哥老会]]にも加わっている。[[1909年]]、[[雲南省]]に創設された軍事学校である[[雲南陸軍講武堂]]に入学し、60年以上に及ぶ軍歴が始まる。また、この年に[[孫文]]が率いる[[中国同盟会]](後の[[国民党]])に参加している。翌年、[[新軍]]の少尉に任官。[[1911年]]、[[蔡鍔]]将軍の下で[[辛亥革命]]に参加し、[[1915年]]の[[護国戦争]]にも参加した。
84行目:
孫文との面談を終えた後、朱徳は中国共産党への入党を申請した。しかし、共産党の指導者である[[李大釗]]は、朱徳が国民党員ではないとはいえ、国民党軍で勇名を馳せていたので、彼の入党に難色を示した。李大釗は朱徳に対し、引き続き切磋琢磨し、機会を見て再度入党申請を出すように諭した。朱徳は失意の内にドイツに渡り、[[社会主義]]理論を学んだ。同年、ドイツで[[周恩来]]と出会う。さすがにその場での入党はかなわなかったが、翌[[1923年]]、周恩来の口添えで入党が許可された。なお、中国共産党史の扱いでは、1922年に李大釗に入党申請した時点で共産党員となったことになっている。
 
ドイツ留学中に2度労働運動に参加し、2回目の労働運動で官憲に捕縛された朱徳は放校になってしまう。そのため、[[1925年]]にドイツからソ連に移動し、[[モスクワ中山大学]]で軍事を学ぶ。この中で、朱徳は当時の軍閥が割拠する中国には地方利権保護的な資本主義や、軍閥を支える地方のプチブルを生む土壌となった私有財産制を制限する社会主義革命が必要であること、しかしそのためには軍閥を打倒する戦闘行為を避けて通れないこと、社会主義化を支えるのは共産党であるが、非合法で地下組織の状態では[[ゲリラ]]戦が有効であることなどを導き出したと思われる。ソ連留学中に教官に提出した[[ゲリラ]]戦に関するレポートは緻密なものであり、軍人朱徳の真骨頂であったと言う。
 
[[1927年]][[8月1日]]<ref>南昌蜂起が勃発したこの日は、中国人民解放軍の創立記念日となっている。</ref>、[[南昌蜂起]]を指導。蜂起自体は失敗に終わったが、その後、共産党の軍事組織[[紅軍]]の主要な指導者の一人となり、[[1928年]]には紅軍第四軍の軍長を務める。朱徳はこの頃、[[井崗山]]で[[毛沢東]]と共に後の八路軍に通じる基本戦略を打ち立てた。それは、「敵が進めば我は退き、敵が休めば我は撹乱し、敵が疲れたら我は打ち、敵が退けば我は進む」という言葉(いわゆる十六字)に象徴される徹底したゲリラ戦術である。
 
[[長征]]では朱徳も重要な役割を果たした。朱徳はその途上で[[張国トウ|張国燾]]らとともに別働隊を指揮したが、張国燾は北進に反対して指揮権を奪い、朱徳は張国燾と行動を共にすることを余儀なくされる。[[1936年]]10月、ようやく甘粛省にて中共中央に合流を果たした。[[1937年]]、[[日中戦争]]が始まり[[第二次国共合作]]が成立すると、[[国民政府]]より[[国民革命軍]]上将(大将)の階級を授与され、[[八路軍]]総司令に就任。その後、[[国共内戦]]では中国人民解放軍総司令を務めた。
 
[[1949年]]10月、中華人民共和国が建国されると、中央人民政府副主席兼人民革命軍事委員会副主席に選出される。人民解放軍総司令の地位はそのままであった。[[1954年]]9月、憲法制定にともない国家機構が再編されると、国家副主席兼[[中華人民共和国国防委員会|国防委員会]]副主席に就任。なお、人民解放軍総司令の職はこのとき廃止されている。[[1955年]]、中華人民共和国元帥の階級を授与され、十大元帥の首席となる。[[1959年]]4月、[[毛沢東]]が国家主席を辞任し、[[劉少奇]]が後継の主席となると、朱徳は劉の後任として[[全国人民代表大会]]常務委員長に転出。