「カルラエの戦い」の版間の差分

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== 背景 ==
紀元前55年に[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]は、[[グナエウス・ポンペイウス]]と共に務めた[[コンスル]](執政官)の任期を終えた。当時、クラッススはポンペイウス、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]と共に[[第一回三頭政治|三頭政治]]を行い、2度の執政官を務めて政治的な実績を重ねた一方、[[第三次奴隷戦争]]を鎮圧して以来ほぼ20年間、軍事的に目立った実績は無かった。クラッススは、最も容易な敵と考えた{{要出典|date=2008年6月}}パルティア遠征を考える。[[元老院]]は遠征しないように説得したが、カエサルとポンペイウスが賛成したので、元老院はしぶしぶ納得した。
 
クラッスス率いるローマ軍は紀元前55年の終わりに[[シリア属州]]に到着した。[[アルメニア王国|アルメニア]]王[[アルタウァスデス2世]]はアルメニア領内を通ってパルティアを攻撃するように助言したが、クラッススはこれを退けて砂漠地帯を横断しユーフラテス川に沿ってパルティアへ向かうこととした。迎え撃つパルティア王[[オロデス2世]]は軍隊を2分し、歩兵部隊をアルメニアへ送り、騎兵部隊でクラッススを迎え撃つ準備をした。