「パット・オハラウッド」の版間の差分

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オハラウッドはオーストラリアを代表するテニス選手として、[[ウィンブルドン選手権]]と[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]に2度ずつ遠征した。ウィンブルドン選手権では、[[1919年ウィンブルドン選手権|1919年]]に[[ロナルド・トーマス]]と組んで男子ダブルス優勝、[[1922年ウィンブルドン選手権|1922年]]に[[スザンヌ・ランラン]]([[フランス]])と組んで混合ダブルス優勝を記録したが、シングルスは2度ともベスト8で止まった。全米選手権は[[1922年全米テニス選手権|1922年]]と[[1924年全米テニス選手権|1924年]]の2度、[[ジェラルド・パターソン]]と組んで男子ダブルス準優勝者になっている。全豪男子ダブルス4勝やデビスカップのダブルス通算成績(8勝1敗)、ならびにウィンブルドン選手権や全米選手権の成績が示すように、彼はダブルス分野における当代一流の名手として知られた。
 
パトリックと妻の[[メリル・オハラウッド|メリル]]は、1923年8月3日に結婚した。メリルは結婚当時、最初の夫と死別したやもめだったという。メリルは全豪選手権の女子ダブルスで[[1926年オーストラレーシアン選手権|1926年]]・[[1927年全豪テニオートラリア選手権 (テニス)|1927年]]の2度優勝した。夫がプロ転向した後の[[1932年全豪テニス選手権|1932年全豪選手権]]混合ダブルスで、メリルは[[日本]]の[[佐藤次郎]]と組んだ準優勝がある。現役選手時代は、パットとメリルが夫婦ペアで混合ダブルスを組んだ記録は残っていない。
 
オハラウッドは[[1930年]]にプロテニス選手となり、その後は「オーストラリア・ローンテニス協会」などで公認コーチの仕事に携わった。選手としての第一線から退いた後も、パットとメリルのオハラウッド夫妻はオーストラリア各地でテニスクラブの運営に尽力した。本記事の外部参照リンクに使用した「オーストラリア人名事典」によれば「オハラウッドは妻に先立たれ、子供を持たずに死んだ」と記されているが、メリルがいつ死去したかを示すはっきりした資料は残っていない。全盛期から40年近くたった後、ヘクター・パトリック・オハラウッドは[[1961年]][[12月3日]]に故郷の[[メルボルン]]市内で70年の生涯を終えた。