「エミリー・フッド・ウェスタコット」の版間の差分

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'''エミリー・フッド・ウェスタコット'''('''Emily Hood Westacott''', [[1910年]][[5月6日]] - [[1980年]][[10月9日]])は、[[オーストラリア]]・[[クイーンズランド州]][[ブリスベン]]出身の女子[[テニス]]選手。フルネームは ''Emily Jane Lucy Harding Hood Westacott'' (エミリー・ジェーン・ルーシー・ハーディング・フッド・ウェスタコット)という。[[1930年代]]の全豪選手権(現在の[[全豪オープン]])で活躍した選手で、[[1939年]]の女子シングルス優勝者になり、女子ダブルスでも3勝を挙げた。旧姓「エミリー・フッド」(''Emily Hood'')というが、1930年にクライド・ウェスタコット(Clyde Westacott)と結婚し、既婚選手として2つの姓を併用した。彼女のテニスは“爆音のような”グラウンド・ストロークで粘り強く勝負し、フォアハンド・ストロークとバックハンド・ストロークを同じ[[ラケット]]面で打っていた。右利きの選手。
 
エミリー・フッドは20歳の時、[[1930年]]の[[1930年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]女子ダブルスで[[マーガレット・モールズワース]]とペアを組んで初優勝した。16歳の年齢差があった2人は、決勝で[[シルビア・ランス・ハーパー]]&[[マージョリー・コックス・クロフォード|マージョリー・コックス]]組を 6-3, 0-6, 7-5 で破って優勝している。この後、フッドは8月20日にクライド・ウェスタコットと結婚し、その後は2つの姓を併用して「エミリー・フッド・ウェスタコット」と名乗った。[[1932年全豪テニオートラリア選手権 (テニス)|1932年]]と[[1933年全豪テニス選手権|1933年]]の2年連続で、ウェスタコットはシングルスのベスト4に入る。ウェスタコットとモールズワースは、[[1933年全豪テニス選手権|1933年]]と[[1934年全豪テニス選手権|1934年]]の女子ダブルス部門でも優勝し、ペアとして2年連続3度目の優勝を成し遂げた。[[1922年オーストラレーシアン選手権|1922年]]に第1回女子シングルス優勝者となったモールズワースは、[[1935年]]に41歳で現役を引退した。
 
モールズワースの引退後、ウェスタコットは[[1937年全豪テニス選手権|1937年]]に女子シングルスで初めての決勝進出を果たす。それまで、彼女は[[1932年全豪テニオートラリア選手権 (テニス)|1932年]]・[[1933年全豪テニス選手権|1933年]]・[[1935年全豪テニス選手権|1935年]]の3度準決勝敗退で止まっていた。最初の決勝戦では、ウェスタコットは[[ナンシー・ウィン・ボルトン|ナンシー・ウィン]]に 3-6, 7-5, 4-6 で敗れた。2年後の[[1939年全豪テニス選手権|1939年]]、エミリー・ウェスタコットは2度目の決勝戦で[[ネル・ホール・ホップマン|ネル・ホップマン]]を 6-1, 6-2 で破り、ようやくシングルス初優勝を達成した。シングルス決勝に進んだ年は、2度とも女子ダブルス準優勝になっている。[[1937年全豪テニス選手権|1937年]]の女子ダブルスではホップマンと、[[1939年全豪テニス選手権|1939年]]はメイ・ハードキャッスルと組んだが、いずれも決勝でウィンと[[テルマ・コイン・ロング|テルマ・コイン]]の組に敗れた。ナンシー・ウィンとテルマ・コインは、[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]前の全豪選手権女子ダブルスで[[1936年全豪テニス選手権|1936年]]-[[1940年全豪テニス選手権|1940年]]に5連覇し、終戦後も7度の優勝を重ねた強豪ペアである。
 
ウェスタコットは[[1939年全豪テニス選手権|1939年]]の女子シングルス優勝で選手生活を終えたが、戦前の全豪選手権は[[1940年全豪テニス選手権|1940年]]まで開催があった。一連の活躍から40年あまり後、エミリー・フッド・ウェスタコットは[[1980年]][[10月9日]]に70歳で死去した。