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[[1977年]]にプロ入り。同年の[[1977年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]にデビューするが、当年度の優勝者となった[[バージニア・ウェード]]に初戦で敗退する。最初期はほとんど[[イギリス]]国内の試合のみに出場していたが、[[1981年]]から世界的な活躍を始め、[[1981年全仏オープンテニス|全仏オープン]]を除く4大大会で4回戦に進出した。[[1983年]]にデュリーのテニス経歴は全盛期を迎え、女子ツアー大会でシングルス2勝とダブルス3勝を挙げ、[[1983年全仏オープンテニス|全仏オープン]]と[[1983年全米オープンテニス|全米オープン]]でベスト4に入り、(当時は年末開催の)[[1983年全豪オープンテニス|全豪オープン]]でベスト8入りした。全仏オープン準決勝では[[ミマ・ヤウソベッツ]]([[ユーゴスラビア]])に 6-3, 5-7, 2-6 の逆転で敗れ、全米オープン準決勝では[[クリス・エバート]]に 4-6, 4-6 で完敗したが、こうしてデュリーは国際レベルの選手に躍進する。[[1984年]]にデュリーは地元の[[1984年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で自己最高成績のベスト8に入ったが、この時の4回戦で当時15歳の[[シュテフィ・グラフ]](当時[[ドイツ|西ドイツ]])を 3-6, 6-3, 9-7 で退けた試合は今なお語り草になっている。
 
その後のデュリーは[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]の女子シングルスで4回戦以上に勝ち残ることはできなかったが、混合ダブルスで[[1987年]]の[[1987年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]と[[1991年]]の[[1991年全豪オープンテニス|全豪オープン]]に優勝を飾っている。パートナーはどちらも同じ[[イギリス]]の[[ジェレミー・ベイツ]]と組んだ。デュリーは比較的長く現役生活を続行したが、[[1995年]]の[[1995年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]2回戦で第4シードの[[ヤナ・ノボトナ]]に敗れた試合の後、35歳で現役を退いた。
 
デュリーは女子テニス国別対抗戦・[[フェドカップ|フェデレーションカップ]]でも、[[1981年]]から[[1995年]]まで15年間イギリス代表選手を務めた。通算成績は34勝21敗(シングルス12勝16敗、ダブルス22勝5敗)で、フェデレーションカップではシングルスよりもダブルスで高い勝率を挙げた。通算勝利数はイギリス・チームの2位タイ記録で(1位[[バージニア・ウェード]]、2位タイがデュリーとクレア・ウッド)、ダブルス勝利数はウェードに続く単独2位記録となった。