「セバスチャン・ラルー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m ロボットによる 変更: ru:Ларо, Себастьен
Vigopybot (会話 | 投稿記録)
43行目:
'''セバスチャン・ラルー'''('''Sébastien Lareau''', [[1973年]][[4月27日]] - )は、[[カナダ]]・[[ケベック州]][[モントリオール]]出身の男子プロ[[テニス]]選手。[[2000年]]の[[シドニーオリンピック|シドニー五輪]]男子ダブルスで、[[ダニエル・ネスター]]とペアを組んで金メダルを獲得した。[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]でも[[1999年]]の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]で、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アレックス・オブライエン]]とペアを組んで優勝している。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス優勝はないが、ダブルスで通算17勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス76位、ダブルス4位。身長182cm、体重79kg、右利き。
 
ラルーはジュニア時代、同じ[[カナダ]]のセバスチャン・ルブラン(Sébastien LeBlanc)とペアを組んで[[1990年]]の[[1990年全仏オープンテニス|全仏オープン]]と[[1990年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]のジュニア男子ダブルス部門に2連勝を達成し、カナダに史上初の[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]タイトルをもたらした。[[1991年]]にプロ入りし、その年から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[カナダ]]代表選手となる。[[1996年]]と[[1997年]]の2年連続で、ラルーは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アレックス・オブライエン]]とペアを組んで[[全豪オープン]]の男子ダブルス決勝に進出したが、[[1996年全豪オープンテニス|1996年]]は[[ステファン・エドベリ]]&[[ペトル・コルダ]]組、[[1997年全豪オープンテニス|1997年]]は[[オーストラリア]]の[[マーク・ウッドフォード]]&[[トッド・ウッドブリッジ]]組に敗れ、2年連続準優勝に終わる。[[1996年]]の[[アトランタオリンピックにおけるテニス競技|アトランタ五輪]]で、ラルーは初めてオリンピックの[[カナダ]]代表選手に選ばれたが、男子シングルス1回戦で[[スペイン]]代表の[[アルベルト・コスタ・カサルス|アルベルト・コスタ]]に敗れた。(アトランタ五輪はシングルスのみの出場で、ダブルスには出ていない。)[[1998年]]4月に「[[ジャパン・オープン・テニス選手権|ジャパン・オープン]]」で来日し、[[ダニエル・ネスター]]とのペアで優勝を飾る。[[1999年]]の[[1999年全米オープンテニス|全米オープン]]男子ダブルスで、ラルーとオブライエンは[[インド]]の[[マヘシュ・ブパシ]]&[[リアンダー・パエス]]組を 7-6, 6-4 で破り、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]初優勝を飾った。
 
[[2000年]]の[[シドニーオリンピックにおけるテニス競技|シドニー五輪]]男子ダブルスで、セバスチャン・ラルーは[[カナダ]]代表選手として[[ダニエル・ネスター]]とペアを組み、決勝で[[オーストラリア]]の[[マーク・ウッドフォード]]と[[トッド・ウッドブリッジ]]の組を 5-7, 6-3, 6-4, 7-6 で破って金メダルを獲得した。ウッドフォードとウッドブリッジは、姓もよく似ていることから「ウッディーズ」(Woodies)と呼ばれた名コンビである。35歳のマーク・ウッドフォードは[[2000年]]限りでの現役引退を表明していたが、最後の年に地元開催のオリンピックで有終を飾ることができなかった。ラルーは[[2001年]]まで[[デビスカップ]]のカナダ代表選手を務め、デ杯通算「28勝19敗」の成績を残したが、[[2002年]]9月のトーナメントを最後に29歳で現役を引退した。