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'''ヘレナ・スコバ'''('''Helena Suková''', [[1965年]][[2月23日]] - )は、[[チェコスロバキア]]・[[プラハ]]出身の元女子プロ[[テニス]]選手。[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]の女子シングルスで4度の準優勝があり、[[全豪オープン]]で2度、[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]で2度ずつの準優勝に終わった。オリンピックでも、[[ソウルオリンピック|1988年ソウル五輪]]と[[アトランタオリンピック|1996年アトランタ五輪]]で2個の女子ダブルス銀メダル獲得がある。当時のチェコスロバキアでも名門のテニス一家に育ち、母親の[[ベラ・スコバ]]([[1931年]] - [[1982年]])も[[1962年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]準優勝の経歴を持つ名選手だった。父親のシリル・スーク(Cyril Suk)は長年「チェコスロバキア・テニス連盟」の会長を務めた人である。弟の[[シリル・スーク]]3世(シリル・スーク・ジュニアとも呼ばれる)もプロテニス選手で、ダブルスのスペシャリストとしてよく知られている。
 
母親の[[ベラ・スコバ]]が[[1982年]][[5月13日]]に死去した後、娘のヘレナは[[1983年]]1月にプロ入りした。[[1984年]]、当時は年末の12月開催であった[[1984年全豪オープンテニス|全豪オープン]]で、スコバは準決勝で[[マルチナ・ナブラチロワ]]を 1-6, 6-3, 7-5 で破る大金星を挙げた。この当時、全盛期にあったナブラチロワは前年の[[1983年ウィンブルドン選手権|1983年ウィンブルドン]]から[[1984年全米オープンテニス|1984年全米オープン]]まで前人未到の4大大会「6連勝」と、シングルス「74連勝」を記録中だった。しかし、このスコバ戦の敗北により、ナブラチロワは1984年度の“年間”[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]を逃すことになり、2つの大記録がストップしてしまう。こうして4大大会シングルス決勝に初進出したスコバだったが、決勝では[[クリス・エバート|クリス・エバート・ロイド]]に 7-6, 1-6, 3-6 の逆転で敗れた。[[1986年]]の[[1986年全米オープンテニス|全米オープン]]決勝ではナブラチロワに 3-6, 2-6 で敗れ、4大大会シングルスで2度目の準優勝になる。
 
その後もスコバは4大大会のシングルスでは運に恵まれず、[[1989年]]は[[1989年全豪オープンテニス|全豪オープン]]で2度目、[[1993年]]は[[1993年全米オープンテニス|全米オープン]]で2度目の準優勝に終わる。後の2回は、決勝で敗れた相手は[[シュテフィ・グラフ]]であった。スコバとグラフは、[[1983年]]夏の初対戦ではスコバが勝利したが、その後はグラフの21連勝で終わっている。これでスコバの4大大会シングルス準優勝は4度になった。スコバは[[WTA]]ツアーのシングルスでは「10勝」を挙げたが、その中には[[1992年]]に[[日本]]の[[大阪]]で開かれたトーナメントの優勝も含まれている。
 
ヘレナ・スコバはダブルスの名手としてよく知られ、ツアー通算「68勝」を挙げた。[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]でも女子ダブルスでは9勝、混合ダブルスでは5勝を記録している。[[1990年]]にスコバは同じ[[チェコ]]の[[ヤナ・ノボトナ]]とペアを組み、4大大会ダブルス3連勝を記録したが、[[1990年全米オープンテニス|全米オープン]]の女子ダブルス決勝で敗れ、[[1984年]]の[[マルチナ・ナブラチロワ]]&[[パム・シュライバー]]組以来の「ダブルス年間グランドスラム」を逸している。[[1993年]]の[[1993年全米オープンテニス|全米オープン]]では、スコバは女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてで決勝に進出し、女子シングルス決勝ではグラフに敗れたが、女子ダブルスと混合ダブルスの2部門で優勝した。[[1996年]]の[[1996年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]女子ダブルスでは、当時15歳の[[マルチナ・ヒンギス]]とペアを組んで優勝を飾った。混合ダブルスは、弟の[[シリル・スーク]]と組んだ優勝が3つ、[[オーストラリア]]の[[トッド・ウッドブリッジ]]と組んだものが2つある。