「ネル・ホール・ホップマン」の版間の差分

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自らの選手経歴を築く傍ら、ネル・ホップマンは[[1938年]]にオーストラリア女子選手による海外遠征チームのキャプテンを務め、9ヶ月間にわたってヨーロッパ、イギリス、アメリカを遠征した。「オーストラリア・ローンテニス協会」が女子選手のための海外遠征を支援し始めたのは、これが2度目だった。当時は女子選手のための国際的なテニス団体戦がなく、オーストラリアの女子選手たちは海外に出るチャンスが限られていた。(当時行われていた女子テニス団体戦「[[ワイトマンカップ]]」は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[イギリス]]の女子選手によるチーム対抗戦だった。)その後間もなく[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]が勃発し、テニス競技大会も戦争のため開催中止を余儀なくされる。ホップマンは戦時中、赤十字社のボランティアやイギリス軍の秘書の仕事をした。
 
終戦後の[[1947年]]、ネル・ホール・ホップマンは[[1947年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]で8年ぶり2度目の女子シングルス決勝進出を決めたが、今度は[[ナンシー・ウィン・ボルトン]]に 3-6, 2-6 で敗れ、この部門では2度目の準優勝に終わった。女子でもオーストラリア勢と海外選手の対戦機会を増やしたいと願い、ホップマンは「オーストラリア・ローンテニス協会」に説得を続ける。[[1949年オーストラリア選手権 (テニス)|1949年]]と[[1950年オーストラリア選手権 (テニス)|1950年]]の全豪選手権では、アメリカ女子のトップ選手であった[[ドリス・ハート]]と[[ルイーズ・ブラフ]]の全豪出場を実現させた。[[1952年]]から[[1953年]]にかけては、[[モーリーン・コノリー]]をオーストラリアに招待した。コノリーは[[1953年全豪テニオートラリア選手権 (テニス)|1953年]]の全豪選手権で初優勝を飾り、女子選手初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」への第一歩を踏み出した。ホップマン夫妻とコノリーは親しい間柄になり、ネルとコノリーは[[1954年]]の[[1954年全仏テニス選手権|全仏選手権]]女子ダブルスで優勝した。
 
[[1960年代]]に入ると、若手の女子選手たちはより自由な海外遠征を求めるようになり、個人戦よりもチーム団体戦を重視してきたホップマンと意見の対立が多くなった。この点は、外部参照リンクの説明によれば「ホップマン夫妻に子供がなく、ネルは若手選手たちが教育者やコーチ、チーム監督に期待する事柄の変化を理解できなかった」と述べられている。ようやく[[1963年]]に、女子テニス国別対抗戦「[[フェドカップ|フェデレーションカップ]]」が創設され、オーストラリアは第3回大会の[[1965年]]に初優勝を遂げた。ホップマンは[[1965年]]に女性として初めて「ビクトリア・ローンテニス協会」の終身会員に選ばれたが、その直後から激しい頭痛に悩まされるようになり、[[1966年]]に[[脳腫瘍]]の手術を受けた。[[1968年]][[1月10日]]、夫のハリーがまだ[[デビスカップ]]監督を務めていた間に、ネル・ホール・ホップマンは頭蓋内腫瘍のため58歳で死去した。