「サンドン・ストール」の版間の差分

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[[1997年]]から[[1998年]]の2年間、ストールは大半のトーナメントで[[シリル・スーク]]([[チェコ]])とペアを組んだ。スークの家族も名門のテニス一家で、彼の母親[[ベラ・スコバ]]は[[1962年ウィンブルドン選手権|1962年ウィンブルドン]]女子シングルス準優勝者になった名選手であり、姉の[[ヘレナ・スコバ]]も女子ツアーのトップ選手である。ストールとスークの“親子2代選手ペア”は、[[1998年全米オープンテニス|1998年全米オープン]]の男子ダブルスで初優勝を飾った。ストールにとっては、[[1995年全米オープンテニス|1995年]]以来3年ぶり2度目の全米ダブルス決勝戦だった。2人は[[ダニエル・ネスター]]([[カナダ]])&[[マーク・ノールズ]]([[バハマ]])組に 4-6, 7-6, 6-2 の逆転勝利を収めた。サンドンの父親[[フレッド・ストール]]は、全米選手権(当時の名称、[[1968年全米オープンテニス|1968年]]から「全米オープン」に変更)で[[1966年全米テニス選手権|1966年]]の男子シングルス優勝、[[1965年全米テニス選手権|1965年]]・[[1966年全米テニス選手権|1966年]]・[[1969年全米オープンテニス|1969年]]の3度男子ダブルス優勝がある。全米オープンの男子ダブルスで、ストール家は親子2代で優勝を飾った。
 
その後、ストールは[[1999年]]に[[ウェイン・ブラック]]([[ジンバブエ]])、[[2000年]]は[[ポール・ハーフース]]([[オランダ]])や、オーストラリアの後輩選手[[レイトン・ヒューイット]]などとペアを組んだ。[[1999年ウィンブルドン選手権|1999年ウィンブルドン]]2回戦で[[ゴラン・イワニセビッチ]]に敗れた試合を最後に、ストールはシングルスから撤退し、以後の活動をダブルスのみに絞った。[[2000年]]はハーフースとのコンビで好成績が多く、[[2000年全仏オープンテニス|全仏オープン]]と[[2000年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の2大会連続で男子ダブルス決勝に進出したが、両大会とも同じオーストラリアの「ウッディーズ」に連敗して準優勝になった。全仏オープンとウィンブルドンでは、サンドンは親子2代優勝の夢を果たせなかった。[[2001年]]3月5日付で、サンドン・ストールはATPツアーでダブルスランキング「2位」に入り、この年にツアーで年間5勝を記録した。[[2002年]]10月、[[オーストリア]]・[[ウィーン]]大会で[[ジョシュア・イーグル]](同じオーストラリアの選手)と組み、決勝で[[チェコ]]ペアの[[イリ・ノバク]]&[[ラデク・ステパネク]]組を 6-4, 6-3 で破った勝利が、ストールの現役最後の優勝になった(22勝目)。[[2003年]]1月、[[2003年全豪オープンテニス|全豪オープン]]の男子ダブルス1回戦敗退を最後に32歳で現役を引退。引退後はテニスコーチとして活動し、[[2007年]]9月から「オーストラリア・スポーツ研究所」のテニスコーチに指名された。
== 4大大会ダブルス成績 ==
* [[全仏オープン]] 男子ダブルス準優勝1度:2000年
10,969

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