「アーサー・アッシュ」の版間の差分

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アッシュは公園の管理人だった父親のもとでテニスを始めたが、幼少期から人種差別の影響により、ジュニアのテニス・トーナメントに参加できなかった。10歳の時に黒人医師の[[ロバート・ウォルター・ジョンソン]]([[1899年]] - [[1971年]])と出会い、彼の支援を受けるようになる。ジョンソンはアッシュを自宅に同居させ、学業とテニスの両面で多大の援助を与えた。[[公民権運動]]の高まりとともに、アッシュも徐々に試合出場の機会を得られるようになり、[[1960年]]と[[1961年]]に「全米室内テニス選手権」で2連覇を果たす。そうして[[カリフォルニア大学]]に入学の道も開かれ、「[[全米大学体育協会|全米大学]]テニス選手権」のシングルス優勝も達成した。[[1963年]]から男子国別対抗戦・[[デビスカップ]]のアメリカ代表選手に選ばれ、黒人のテニス選手として初めてデ杯でプレーするようになった。
 
[[1968年]]の[[1968年全米オープンテニス|全米オープン]]で[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]初優勝を果たした時、アッシュは陸軍中尉として兵役に就いていた。この年はテニスの歴史を通じて最大の転換期であり、これまでアマチュア選手しか出場資格がなかった4大大会に、プロ選手も出場を認められた「オープン化」が実施された年である。そのオープン化措置のもとで行われた最初の全米オープンで、アッシュはプロ選手の[[トム・オッカー]]([[オランダ]])を 14-12, 5-7, 6-3, 3-6, 6-3 で破っている。黒人テニス選手の4大大会シングルス優勝は、女子で[[1950年代]]後半に活躍した[[アリシア・ギブソン]]([[1927年]] - [[2003年]])が5勝を挙げていたが(ギブソンの成績:[[1956年全仏テニス選手権|1956年全仏選手権]]優勝、[[1957年ウィンブルドン選手権|1957年]]と[[1958年ウィンブルドン選手権|1958年]]にウィンブルドンと全米選手権を2連覇)、アッシュは男子選手として初の黒人チャンピオンに輝いた。[[1970年]]に[[1970年全豪オープン|全豪オープン]]でも優勝し、4大大会2冠を獲得する。この大会ではオープン化以前、[[1966年全豪テニオートラリア選手権 (テニス)|1966年]]と[[1967年全豪テニス選手権|1967年]]の全豪選手権で2年連続の準優勝に甘んじていた。翌年の[[1971年全豪オープン|1971年全豪オープン]]では決勝戦で地元[[オーストラリア]]の[[ケン・ローズウォール]]に敗れ、大会連覇はならなかった。
 
[[1975年]]の[[1975年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子シングルス決勝で、アッシュは大会前年優勝者の[[ジミー・コナーズ]]を 6-1, 6-1, 5-7, 6-4 で破り、4大大会3勝目を挙げた。これはアッシュが32歳の誕生日を迎える数日前の名勝負であった。([[1996年ウィンブルドン選手権|1996年ウィンブルドン]]準優勝者で、同じく黒人選手の[[マラビーヤ・ワシントン]]は、6歳の時に見たこの試合がきっかけでテニスを始めたという。)[[1981年]]から5年間、デビスカップのアメリカ・チーム代表監督を務める。現役引退後はアメリカ・テニス協会のジュニア育成委員として活動し、[[1985年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たした。