「聖書無謬説」の版間の差分

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*[[聖書正典]]としての聖書を第一義的にすることを教理とするキリスト教派、教会が主張するキリスト教関連用語であることを前提として説明する。
 
本来、「無誤」と言う語にしても「無謬」と言う語にしても「誤りがない」ことを表現する同義語であるが、聖書に性質に関しての論議が進むにつれ、[[フラー神学校]]のある論者[[ダニエル・フラー]]らは、次のようなニュアンスを付して、これらの語を区別するようになった。<ref>『[[びぶりか]]』</ref><ref>『現代福音主義神学』p.240</ref>
 
*「無謬」:教理や道徳に関する聖書の言及において、誤って導くことがないこと。
*「[[聖書の無誤性|無誤]]」:聖書の歴史的、科学的言及において、誤った内容のないこと。
上記のように、用語間にその意味の差異を設けえた上で、ある人は「聖書に誤りがない」と言うとき、前者のみを主張し、ある人は、双方を含めて主張するという事態が生じた。
*そして、聖書の「無謬」性のみを主張する立場を、「部分的無誤性」''Limited Inerrancy''の支持者、そして、双方、すなわち「無謬」「無誤」性を共に受け入れる立場を、「[[聖書の無誤性|全的無誤性]]」の支持者と表現するに到った、と言うのが一般的な理解である。しかし、様々な著作におけるこれらの「無誤」、「無謬」の定義は多様で、注意深く読むことが求められている。そもそも二つの概念を分離して論じること自体に無理があることから、[[聖書の無誤性に関するシカゴ声明]]は「全的無誤性」を支持する立場からの声明となっている。シカゴ声明は無誤性の立場をとりつつ、無謬性と無誤性は対立しないとしている。
 
*この立場を取る学者も、[[オリゲネス]]以来、聖書に平行記事間の問題があることに気づいていない訳ではない。ただ、そのような問題を、即、「誤り」(errors)と断定しないで、[[聖書の現象|聖書の「諸現象」(phenomena)]]言う表現に置き換え歴史的・科学的分野での明らかなちが立証されるか性の待つという姿勢であ退け<ref>『福音主義キリスト教と福音派』p.258</ref>
*そして、聖書の「無謬」性のみを主張する立場を、「部分的無誤性」の支持者、そして、双方、すなわち「無謬」「無誤」性を共に受け入れる立場を、「[[聖書の無誤性|全的無誤性]]」の支持者と表現するに到った、と言うのが一般的な理解である。しかし、様々な著作におけるこれらの「無誤」、「無謬」の定義は多様で、注意深く読むことが求められている。そもそも二つの概念を分離して論じること自体に無理があることから、[[聖書の無誤性に関するシカゴ声明]]は「全的無誤性」を支持する立場からの声明となっている。シカゴ声明は無誤性の立場をとりつつ、無謬性と無誤性は対立しないとしている。
*この立場を取る学者も、[[オリゲネス]]以来、聖書に平行記事間の問題があることに気づいていない訳ではない。ただ、そのような問題を、即、「誤り」(errors)と断定しないで、聖書の「諸現象」(phenomena)と言う表現に置き換え、歴史的・科学的分野での明らかな誤ちが立証されるか否かを待つという姿勢である。
*聖書に誤りがあると主張する異端や異教徒に対し、[[ユスティノス]]は、その箇所が「わからないと告白する」と言った<ref>『トリフォンとの対話』</ref>。また[[アウグスティヌス]]は、写本の欠陥、翻訳の問題、自分の理解の不足を理由とした<ref>『ヒエロニムス書簡集』</ref>。[[トマス・アクィナス]]は、聖書の真理性を無条件に確信するべきであるとした<ref>『神学大全』</ref>。<ref>[[和田幹男]]『私たちにとって聖書とは何なのか』[[女子パウロ会]]</ref>