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'''平 教盛'''(たいら の のりもり)は、[[平安時代]]末期の[[平氏|平家]]一門の[[武将]]。[[平忠盛]]の四男。[[平清盛]]の異母弟。母は[[藤原家隆_(左京大夫)|藤原家隆]]の娘([[待賢門院]]に仕えた[[女房]])。[[平通盛]]、[[平教経]]の父。
 
[[保元の乱]]、[[平治の乱]]で兄の清盛に従って戦う。邸宅が[[六波羅]]の総門にあったことから'''門脇殿'''と通称され、さらに[[平氏政権]]での栄達に従って門脇宰相門脇中納言と呼ばれた。[[鹿ケ谷の陰謀]]事件では娘婿の[[藤原成経]]が罪に問われたため、その赦免に奔走した。[[治承・寿永の乱]]では主に後方の守りについた。[[一ノ谷の戦い]]で嫡男の通盛をはじとするどもたちを失う。[[壇ノ浦の戦い]]の敗戦の中で兄の経盛とともに入水した。
 
== 生涯 ==
[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]では兄清盛に従って戦っている。功により院の[[昇殿]]を許された。
 
[[平治]]元年([[1159年]])の[[平治の乱]]では清盛が[[後白河天皇|後白河法皇]]と[[二条天皇]]を[[内裏]]から奪回して、内裏に籠る[[源義朝]][[藤原信頼]]を攻撃する際に、清盛の嫡男の[[平重盛|重盛]]、弟の頼盛とともに大将として[[六波羅]]を出撃。重盛が侍賢門、頼盛が郁方門を攻撃し、敗走したとみせかけて源氏を内裏からおびき出し、その間に内応者に陽明門を開けさせて内裏を占領する働きをした。退路を失った義朝は六波羅へ総攻撃をしかけるが、力尽きて敗走。乱は清盛の勝利に終わった。
 
兄清盛が後白河と距離を置いたのと対照的に、母が仕えた待賢門院所生という縁から後白河に接近し、兄清盛が後白河と距離を置いたのと異なり[[院近臣]]として活動した。ただし[[正室]]腹の異母弟池殿[[平頼盛|頼盛]](池殿)に比べると、清盛に従順であった。『[[源平盛衰記]]』巻六「丹波少将被召捕」にはという<ref>「(清盛は)兄弟多クオハシケル中ニ、コトニ此人ヲバ糸惜(いとほしく)オボシテ、一日モ見ネバ恋クオボツカナケレバトテ、六波羅ノ惣門ノ脇ニ家ヲ造テ据置給ヒタレバ、異名ニ門脇宰相ト申ケル也」とある(『[[源平盛衰記]]』巻六「丹波少将被召捕」)</ref>。乱後、[[正四位下]][[常陸国|常陸介]]となっに叙任されていたが、[[応保]]元年([[1161年]])[[9月15日_(旧暦)|9月15日]]、二条天皇を廃して[[高倉天皇|憲仁親王(後の高倉天皇)]]擁立を図ったとの容疑のため[[解官]]される。これは後白河上皇と二条天皇との対立の巻き添えをくっ受けたもので、院に近い[[平時忠]](清盛の義弟)や[[藤原成親]]も同時に解官されている。なお、翌年には[[能登国|能登]][[受領|守]]に復職している。
 
[[仁安 (日本)|仁安]]3年([[1168年]])に[[正三位]][[参議]]に進み、'''門脇宰相'''と呼ばれた。
 
[[安元]]3年([[1177年]])4月、[[延暦寺]]大衆が院御所へ[[強訴]]に押し寄せたとき、警固のために出動。同年6月、[[鹿ケ谷の陰謀]]事件が発覚。首謀者は院近臣の[[藤原成親]][[西光]][[俊寛]]らで、このうち成親の嫡男の[[藤原成経|成経]]は教盛の娘婿だった。娘は身重でもあり、困り果てた教盛は成経とともに清盛の元へ参り、寛大な処置を願ったが、清盛は対面すら許さず成経の断罪を命じた。これに対して、教盛は[[出家]]して隠遁するとまで言いだし、それならばとようやく成経の身柄を教盛に預けることを許した。
 
関係者の処罰が決まり、成経は[[備中国]]次いで遠く[[薩摩国]][[鬼界ヶ島]]へ流されることになった。娘婿のこと哀れに思う教盛は懐妊した[[中宮]][[平徳子|徳子]]の安産祈願として大赦を願い出て、清盛もこれを許し、翌[[治承]]2年([[1178年]])に成経は赦免されて京へ帰った。
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[[養和]]元年([[1181年]])10月、[[北陸道]]の情勢が不穏になると、教盛は兄弟の頼盛、経盛とともに洛中の守りを担当した。嫡男の通盛は[[越前国|越前守]]で北国の守りを担当しており、[[源義仲]]の軍と合戦を繰り返していた。
 
養和2年([[1182年]])、[[従二位]][[中納言|権中納言]]に進み、'''門脇中納言'''と呼ばれるようになった。
 
=== 一門都落ち ===
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:8月6日:[[解官]]
 
== 関連脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
* [[平氏政権]]
* [[堀川通具]] - 外孫