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'''平 教盛'''(たいら の のりもり)は、[[平安時代]]末期の[[平氏|平家]]一門の[[武将]]。[[平忠盛]]の四男。[[平清盛]]の異母弟。母は[[藤原家隆_(左京大夫)|藤原家隆]]の娘([[待賢門院]]に仕えた[[女房]])。[[平通盛]]、[[平教経]]の父。
[[保元の乱]]、[[平治の乱]]で兄の清盛に従って戦う。邸宅が[[六波羅]]の総門にあったことから'''門脇殿'''と通称され、さらに[[平氏政権]]での栄達に従って門脇宰相
== 生涯 ==
[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]では兄清盛に従って戦っている。功により院の[[昇殿]]を許された。
[[平治]]元年([[1159年]])の[[平治の乱]]では清盛が[[後白河天皇|後白河法皇]]と[[二条天皇]]を[[内裏]]から奪回して、内裏に籠る[[源義朝]]
兄清盛が後白河と距離を置いたのと対照的に、母が仕えた待賢門院所生という縁から後白河に接近し
[[仁安 (日本)|仁安]]3年([[1168年]])に[[正三位]][[参議]]に進み、'''門脇宰相'''と呼ばれた。
[[安元]]3年([[1177年]])4月、[[延暦寺]]大衆が院御所へ[[強訴]]に押し寄せた
関係者の処罰が決まり、成経は[[備中国]]次いで遠く[[薩摩国]][[鬼界ヶ島]]へ流されることになった。娘婿のこと哀れに思う教盛は懐妊した[[中宮]][[平徳子|徳子]]の安産祈願として大赦を願い出て、清盛もこれを許し、翌[[治承]]2年([[1178年]])に成経は赦免されて京へ帰った。
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[[養和]]元年([[1181年]])10月、[[北陸道]]の情勢が不穏になると、教盛は兄弟の頼盛、経盛とともに洛中の守りを担当した。嫡男の通盛は[[越前国|越前守]]で北国の守りを担当しており、[[源義仲]]の軍と合戦を繰り返していた。
養和2年([[1182年]])、[[従二位]]・[[中納言|権中納言]]に進み、'''門脇中納言'''と呼ばれるようになった。
=== 一門都落ち ===
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:8月6日:[[解官]]
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{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[平氏政権]]
* [[堀川通具]] - 外孫
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