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===ヤクルト時代===
[[2005年]]開幕当初は日本の[[投手]]の[[球種 (野球)|変化球]]攻めに遭い、シーズンは二2軍スタートとなったが、[[4月]]半ばに一軍合流。しばらくは右翼、交流戦の指名打者、及び・代打での出場が続いたが、[[7月]]半ばに[[鈴木健 (内野手)|鈴木健]]の離脱で[[一塁手]]として出場機会を得ると、持ち味のシュアな打撃を武器に活躍を見せ始めた。[[7月31日]]の対[[阪神タイガース|阪神]]戦では、セットアッパー[[藤川球児]]から[[本塁打|決勝本塁打]]を放ち、この年の藤川に唯一の黒星を付けている。[[8月5日]]~[[8月6日|6日]]の対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦では、8[[打席]]連続安打の固め打ちも見せた。結局[[規定打席]]不足ながらも[[打率]]3割、14本塁打と結果を残して残留が決まった
[[2006年]]は主に「[[恐怖の2番打者|バントをしない2番打者]]」として起用され、打率.294、チーム最多の39本塁打の他、94打点11盗塁と期待に応える活躍を見せた。ただし39本中24本塁打がそれぞれ[[月間MVP]]を受賞した5月と8月に集中している等など、好不調の波が激しいという課題も残った。オフに[[2008年]]までの2年契約を結び、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]に残留している。
[[2007年]]はそれまで主軸を打っていた[[岩村明憲]]の移籍もあって中軸での活躍が期待されたが、鼠径[[ヘルニア]]で[[4月]]は打率1割台の大不振に陥った。4月末には手術のためアメリカに帰国。7月~8月夏場にかけて復帰したが、今度は腰痛を発症した事こともあって、再度二軍降格。期待された程ほどの成績を残せず、最終的に一1軍で打率.217、二2軍でも打率.231と対応に苦慮するシーズンとなった。2年契約が残っていたため、来季も残留することとなった。
[[2008年]]は開幕4番でシーズンスタートするも、打率.202と打撃不振に陥り、[[5月23日]]に2軍降格。直後に右太ももの痛みを訴える。そのリグスの姿勢に[[高田繁]]監督は'''「(二軍に)落ちてすぐ痛いとか言っているし、やる気が感じられない」'''と激怒、即刻戦力構想外となり、[[7月11日]]に[[ウェーバー公示]]、[[7月17日]]に[[自由契約]]公示され、シーズン途中で退団となっした。
[[2009年]]5月に[[阪神タイガース]]が打撃不振の新助っ人[[ケビン・メンチ]]の代役として獲得候補に挙げたが、1年のブランクや年齢面での衰えがネックとなり、日本球界復帰は実現しなかった。尚なお、この年は後述の薬物疑惑の影響でどこの球団にも所属していない。
==薬物疑惑==
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