「田代栄助」の版間の差分

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蜂起中に困民党メンバーやその同調者は「自由自治元年」という私年号を用いた。早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した(なお一部には、指導部の意に反して暴力行為や焼き討ち等を行った者もいた)。
しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。
その後田代は、武装した政府軍に追われて11月11日まで山に籠もり、11月14日に黒谷村(後に[[原谷村 (埼玉県)|原谷村]]、現在は秩父市)の知人宅に宿泊。しかしその家の下働きの老女に密告され、翌15日未明、就寝していたところを警官隊に踏み込まれて捕縛された。
 
その後取り調べを経て、明治18年(1885年)2月19日に死刑判決を受ける。同年5月17日、加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作と共に絞首刑。享年52。