「良岑清風」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
官歴情報追加
1行目:
'''良岑 清風'''(よしみね の きよかぜ、生年不詳 - [[863年]][[5月10日]]([[貞観 (日本)|貞観]]5年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]([[863年]][[5月10日]]))は、[[平安時代]]の[[貴族]]。[[カバネ|姓]]は[[朝臣]]。[[桓武天皇]]の皇子である[[大納言]]・[[良岑安世]]の男。母は[[多治比氏|丹治氏]]。兄弟に[[遍照|良岑宗貞]]などがいる。[[官位]]は[[従四位|従四位下]]・[[近江国|近江]][[国司|権守]]
 
== 経歴 ==
良岑清風は[[桓武天皇]]の孫。父は桓武天皇の皇子で[[大納言]]贈[[従二位]]であった良岑安世である。[[承和 (日本)|承和]]初年に[[内舎人]]に任ぜられ、承和5年([[838年]])に[[下野国|下野]][[掾]]となる。その後[[内匠寮|内匠少允]]や[[伊勢国|伊勢]][[大掾]]を経て[[嘉祥]]2年1月に[[従五位下849年]]叙せられる。[[公卿]]となった後も[[加賀国正六位|加賀正六位上]]介、から[[左馬助]]、[[左近衛少将]]、[[美濃国従五位|美濃]]介、[[播磨国|播磨]]権介などを歴任するが、[[天安 (日本)|天安]]元年、母の喪に服するため職位を解かれるが、その後再任されて[[正五位下]]に叙せられる。貞観2年、美濃守となり[[従四位下斉衡]]を授かり、2後には[[美作国|美作]]守、その翌854には[[近江国|近江]]権守へと転任したが、赴任先で間もなく没した)従五位上
 
その後、[[仁寿]]元年([[851年]])[[加賀国|加賀]]介、天安元年(857年)[[越中国|越中]]権介と地方官を務めるが、[[天安 (日本)|天安]]元年([[857年]])に[[馬寮|左馬助]]次いで[[近衛府|左近衛少将]]と武官も歴任している。天安2年([[858年]])[[美濃国|美濃]]介次いで[[播磨国|播磨]]権介と引き続き地方官を兼ねるも、母の喪に服するため一旦官職を解かれ、その後再任されて本官に復している。同年に[[正五位|正五位下]]に昇叙。
 
貞観2年([[860年]])従四位下に叙せられ、貞観4年([[862年]])美濃守、翌貞観5年(863年)[[近江国|近江]]権守へと転任したが、赴任先で間もなく没した。
 
== 関連項目 ==