「ジョアシャン・デュ・ベレー」の版間の差分

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彼は聖職者となることを選び、[[ノートルダム大聖堂_(パリ)|ノートルダム・ド・パリ]]の参事会員となった。これは十分に世俗的な生活を送ることの妨げにはならなかった。彼の詩は王宮への道を開き、そこで彼は「フランスの[[オウィディウス]]」の異名を取った。1549年にグループはデュ・ベレーを文責とする宣言書を出版することに決めた。これが『[[フランス語の擁護と顕揚]]』である。デュ・ベレーは、グループの理想、つまりは[[ラテン語]]の支配に対してフランス語を守ること、新たなジャンルを耕すこと、語彙を豊かにすること等に触発されたその宣言書に署名をした。力強いが少々高ぶっている息吹に活気づけられたこの書は、フランス語詩の創出の証書たらんとした。勇敢なる冒険、それは彼が知識、才能、皮肉とともに導いたものである。そして、デュ・ベレーは50篇ほどの[[ソネット]]を集めた『オリーブ』を出版した。この[[ペトラルカ]]風のソネット集は大成功をおさめた。それは、恋愛のソネットをフランス語で集めた初の詩集であったのだ。
 
健康上の問題にもかかわらず、彼は1553年から1557年まで[[ローマ]]のジャン・デュ・ベレー枢機卿の秘書を務めた。ジャン・デュ・ベレーは、ジョアシャンの父の従兄弟にして有名な外交官であった。
 
ジョアシャンはローマに憧れを持っていたので、この4年間は情熱的に始まった。しかし、古代の神話的な都は、もはや廃墟、放蕩、豪奢の町でしかないことを見いだすこととなった。嫌悪と後悔の念が、より美しい時代に触発されていた彼を捉えた。夢の中で讃えていたローマが彼を裏切ったのである。1558年にパリに帰還すると、『ローマの古跡』、『様々な田舎風遊戯』、[[アレクサンドラン]]の191篇のソネットを集めた『哀惜詩集』を刊行した。これらの作品は当時よく知られた。