「メンカウラー」の版間の差分

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ギザの第3ピラミッドがメンカウラーのものであることは、伝承によって伝えられるところであったが、実際に確認されたのは、1837年から1838年にかけての[[イギリス]]の軍人、[[ハワード・ヴァイス]]による調査を待たねばならなかった。ハワードが副ピラミッドの天井にメンカウラーの王名を発見し、ようやくメンカウラーのピラミッドと確定する。ハワードは玄室を調査し、蓋のない石棺と、その中に蔵められていた木製の人形棺を発見する。石棺は古王国時代の初期の特徴を備えていたが、人形棺は時代が合わず、後の時代に運び込まれたものとされている。石棺には遺体の一部があり、メンカウラーのものであるか調査するため、1838年、石棺と人形棺は別々の船で共に[[大英博物館]]へと送られた。しかし、石棺を積んだベアトリス号は嵐によって[[リボルノ]]港沖で遺体とともに沈没し、近年ハイテク機器によるサルベージが試みられたものの発見には至っていない<ref>クレイトン(1999:74)</ref>。
 
他にもメンカウラーの遺跡の調査は、[[ハーバード大学]]のジョージ・ライスナー教授率いる[[ボストン美術館]]の合同調査班によって、1905年から1927年の期間で行われた。河岸神殿、葬祭殿といったピラミッドに付随する遺跡を修復し、その過程で粘板岩彫像を数点発掘した。[[ハトホル]](王妃カメレルネブチ2世の像と酷似)と[[ノモス]]の守護女神[[バト]]を左右に配したメンカウラーの像(三体像)、王と王妃の像(二体像)といった王の像は、クフやカウラーといった巨大ピラミッドを残した王と比べても数が多く、加工の難しい粘板岩にもかかわらず技術的にも高度なものだった。[[アラバスター]]による彫像も残されている。また、未完成状態の像が多数発見されており、ピラミッド周辺の施設も治世の後期に規模を拡大させたことと、その急死による事業の中止が伺える<ref>クレイトン(1999:75)</ref>。
 
==発掘された彫像==