「桂岩院」の版間の差分

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== 人物・逸話==
{{要出典範囲|date=2010年10月|四辻氏とその存在自体、そして景勝が彼女を寵愛したことは上杉藩士たちの好意や好感を得られていなかったといわれる。四辻氏の米沢城入り直後に地震が起きたことを、景勝が[[正室]]の[[菊姫 (上杉景勝正室)|菊姫]]を差し置いて側室である女を城内に入れた<ref>菊姫は[[1589年]]から上杉家からの人質として[[伏見]]屋敷で暮らしており、上杉家が移封された[[会津]]や[[米沢藩|米沢]]を訪れた事はなかった。</ref>ことへの天罰としたり、彼女があまりにも早く死んだ原因を菊姫の[[怨霊]]の[[祟り]]とする俗説もあるという}}。
この俗説に関しては、菊姫は[[政略結婚]]によって上杉家に嫁いだ女性であるにもかかわらず、複数の史書に才色兼備を謳われている程、上杉家中一同の深い敬愛を集める存在であったと伝えられることから、四辻氏という女性の存在自体を認めたくない家臣などが少なからずいた可能性は否定できないとの説もある<ref>「[[上杉家御年譜]]」には四辻氏の米沢入りは隠密の内に行われたと記されている</ref>。しかし、当時、世継ぎのいない大名家を幕府が次々と[[改易]]していた事実<ref>[[慶長]]7年10月18日(1602年12月1日)に当主[[小早川秀秋]]が嗣子のないまま死去したため、[[岡山]][[小早川氏]]は幕府によって改易、断絶。</ref>を考えると、四辻氏は世継ぎを得るために家臣たちの了解と勧めのもと、景勝が自らの側室として納れた女性であった可能性が高い。「[[上杉家御年譜]]」によれば、定勝の誕生は直ちに当時景勝が滞在中であった伏見に伝えられ、伏見在中の家臣たちは悉く参賀し慶祝したと記録されている。
 
その後、上杉家と四辻家には、四辻氏の甥であるキリシタン公卿[[山浦光則]]の処遇などを巡る幕府との軋轢などもあった一方、景勝と四辻氏の孫にあたる三代藩主[[上杉綱勝|綱勝]]は、[[継室]]として又従姉妹にあたる[[四辻公理]]の娘富姫を迎え[[四辻家]]との縁をさらに深めている。
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