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{{改名提案|ヤネッテ・フサロバ|t=ノート:女子テニス選手一覧|date=2010年10月}}
{{テニス選手
|選手名(日本語)=ヤネッテ・フサロワ
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'''ヤネッテ・フサロワ'''('''Janette Husárová''', [[1974年]][[6月4日]] - )は、[[スロバキア]]・[[ブラチスラヴァ]]出身の女子プロ[[テニス]]選手。ダブルスのスペシャリストとして知られる。[[女子テニス協会|WTA]]ツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで24勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス31位、ダブルス3位。身長169cm、体重56kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。
[[1991年]]にプロ入り。[[1994年]]に初めて世界ランキング100位以内に入り、[[1996年]]に女子ツアーのダブルス大会で2勝を挙げる。[[1997年]]1月、[[ニュージーランド]]・[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]大会のダブルスで[[ベルギー]]の[[ドミニク・ファン・ルースト]]と組んで優勝し、女子ツアーでダブルス3勝目を挙げたが、直後の[[1997年全豪オープン|全豪オープン]]1回戦で[[シュテフィ・グラフ]]と対戦中に右膝の[[靭帯損傷|靱帯断裂]]を起こし、グラフの第1セット 5-1 リードで途中棄権したことがある。フサロワはこの故障で右膝の手術を受け、7ヶ月間の戦線離脱を経験した。[[シドニーオリンピックにおけるテニス競技|2000年シドニー五輪]]で、フサロワは[[オリンピック]]のスロバキア代表選手として初出場を果たし、[[カリーナ・ハブストワ]]と組んだ女子ダブルスで2回戦に進出した。初めてのオリンピックで、フサロワとハブストワは女子ダブルス2回戦でベルギー代表の[[ドミニク・モナミ|ドミニク・ファン・ルースト]]
ヤネッテ・フサロワは[[2002年]]、シングルス・ダブルスともに最も充実したシーズンを送った。年頭の[[2002年全豪オープン|全豪オープン]]で、フサロワは3回戦で[[日本]]の[[杉山愛]]を破り、第4シードの[[キム・クライシュテルス]]との4回戦まで進出した。この年はダブルスで年間6勝を挙げたが、そのうち4つが[[エレーナ・デメン
[[2003年]]は故障に悩み、6年前に痛めた右膝の古傷に加えて、背筋痛で試合を棄権したこともあった。[[2004年]]は[[アテネオリンピック (2004年) におけるテニス競技|アテネ五輪]]で2度目のオリンピックに出場したが、[[ダニエラ・ハンチュコワ]]との女子ダブルスで1回戦敗退に終わっている。その後、[[2005年]]2月に日本の「[[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント]]」で[[エレーナ・リホフツェワ]]と組んだ優勝がある。[[2006年]]は、7月後半に[[オランダ]]の[[ミカエラ・クライチェク]]([[リカルド・クライチェク]]の妹)と組んでダブルス2週連続優勝を記録した。▼
▲[[2003年]]は故障に悩み、6年前に痛めた右膝の古傷に加えて、背筋痛で試合を棄権したこともあった。[[2004年]]は[[アテネオリンピック (2004年) におけるテニス競技|アテネ五輪]]で2度目のオリンピックに出場したが、[[ダニエラ・ハンチュコワ]]との女子ダブルスで1回戦敗退に終わっている。その後、[[2005年]]2月に日本の「[[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント]]」で[[エレナ・リホフツェワ]]と組んだ優勝がある。[[2006年]]は、7月後半に[[オランダ]]の[[ミカエラ・クライチェク]]([[リカルド・クライチェク]]の妹)と組んでダブルス2週連続優勝を記録した。
== 外部リンク ==
* {{WTA|id=3407|name=ヤネッテ・フサロワ}}
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